くし》どもの眼《め》や心を楽ませたか知れません。国府津から小田原、小田原から湯河原、そのあひだも二人は絶えず海や山に眼を奪はれてゐました。宿屋の男に案内されて、ふたりが馬車に乗つて宿に行き着きましたのは、もう午後四時に近い頃でした。
「やあ来ましたね。」
 継子さんの阿兄《おあにい》さんは嬉《うれ》しさうに私《わたくし》どもを迎へてくれました。阿兄さんは不二雄《ふじお》さんと仰《おっ》しやるのでございます。不二雄さんはもうすつかり[#「すつかり」に傍点]癒《なお》つたと云つて、元気も大層よろしいやうで、来月中旬には帰京すると云ふことでした。
「どうです。わたしの帰るまで逗留して、一緒に東京へ帰りませんか。」などと、不二雄さんは笑つて云ひました。
 その晩は泊りまして、あくる日は不二雄さんの案内で近所を見物してあるきました。春の温泉場――そののびやかな気分を今更《いまさら》委《くわ》しく申し上げませんでも、どなたもよく御存じでございませう。わたくし共はその一日を愉快に暮しまして、あくる火曜日の朝、いよ/\こゝを発《た》つことになりました。その間にも色々のお話がございますが、余り長くなりますから申上げません。そこで今朝はいよ/\発つと云ふことになりまして、継子さんとわたくしとは早く起きて風呂場へまゐりますと、なんだか空が曇つてゐるやうで、廊下の硝子《がらす》窓から外を覗《のぞ》いてみますと、霧のやうな小雨が降つてゐるらしいのでございます。雨か靄《もや》か確《たしか》にはわかりませんが、中庭の大きい椿《つばき》も桜も一面の薄い紗《しゃ》に包まれてゐるやうにも見えました。
「雨でせうか。」
 二人は顔を見あはせました。いくら汽車の旅にしても、雨は嬉《うれ》しくありません。風呂に這入《はい》つてから継子さんは考へてゐました。
「ねえ、あなた。ほんたうに降つて来ると困りますね。あなたどうしても今日お帰りにならなければ不可《いけな》いんでせう。」
「えゝ火曜日には帰ると云つて来たんですから。」と、わたくしは云ひました。
「さうでせうね。」と、継子さんは矢はり考へてゐました。「けれども、降られるとまつたく困りますわねえ。」
 継子さんは頻《しき》りに雨を苦にしてゐるらしいのです。さうして、もし雨だつたらばもう一日逗留して行きたいやうなことを云ひ出しました。わたくしの邪推かも知れませんが、継子さんは雨を恐れるといふよりも、ほかに仔細《しさい》があるらしいのでございます。久振《ひさしぶ》りで不二雄さんの傍へ来て、唯《た》つた一日で帰るのはどうも名残惜《なごりおし》いやうな、物足らないやうな心持が、おそらく継子さんの胸の奥に忍んでゐるのであらうと察しられます。雨をかこつけに、もう一日か二日も逗留してゐたいといふ継子さんの心持は、わたくしにも大抵想像されないことはありません。邪推でなく、全くそれも無理のないことゝ私《わたくし》も思ひやりました。けれども、わたくしは何《ど》うしても帰らなければなりません、雨が降つても帰らなければなりません。で、その訳を云ひますと、継子さんはまだ考へてゐました。
「電報をかけても不可《いけ》ませんか。」
「ですけれども、三日の約束で出てまゐりましたのですから。」と、わたくしは飽《あく》までも帰ると云ひました。さうして、もし貴女《あなた》がお残《のこ》りになるならば、自分ひとりで帰つても可《い》いと云ひました。
「そりや不可《いけ》ませんわ。あなたが何《ど》うしてもお帰りになるならば、わたくしも無論御一緒に帰りますわ。」
 そんなことで二人は座敷へ帰りましたが、あさの御飯をたべてゐる中《うち》に、たうとう本降りになつてしまひました。
「もう一日遊んで行つたら可《い》いでせう。」と、不二雄さんも切《しき》りに勧めました。
 さうなると、継子さんはいよ/\帰りたくないやうな風に見えます。それを察してゐながら、意地悪く帰るといふのは余りに心無しのやうでしたけれど、その時のわたくしは何うしても約束の期限通りに帰らなければ両親に対して済まないやうに思ひましたので、雨のふる中をいよ/\帰ることにしました。継子さんも一緒に帰るといふのをわたくしは無理に断つて、自分だけが宿を出ました。
「でも、あなたを一人で帰しては済みませんわ。」と、継子さんは余ほど思案してゐるやうでしたが、結局わたくしの云ふ通りにすることになつて、ひどく気の毒さうな顔をしながら、幾たびかわたくしに云訳《いいわけ》をしてゐました。
 不二雄さんも、継子さんも、わたくしと同じ馬車に乗つて停車場まで送つて来てくれました。
「では、御免ください。」
「御機嫌よろしう。わたくしも天気になり次第に帰ります。」と、継子さんはなんだか謝《あやま》るやうな口吻《くちぶり》で、わたくしの
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