か、あるいは夏の暑いときに、塩と酢をもってその器を拭いた上で血をそそぐと、いずれもその血が別々に凝結して一つに寄り合わない。そういう特殊の場合がいろいろあるから、迂闊に滴血などを信ずるのは危険であると、彼は説明した。
 成程そうであろうと思われる。しかしこの場合、もし滴血をおこなわなければ、弟はおそらく上訴しなかったであろう。弟が上訴しなければ、その妻の陰事《いんじ》は摘発されなかったであろう。妻の陰事が露顕しなければ、この裁判はいつまでも落着《らくぢゃく》しなかったであろう。こうなると、あながちに役人の不用意を咎めるわけにも行かない。そのあいだには何か自然の約束があるようにも思われるではないか。

   不思議な顔

 蒙陰《もういん》の劉生《りゅうせい》がある時その従弟《いとこ》の家に泊まった。いろいろの話の末に、この頃この家には一種の怪物があらわれる。出没常ならず、どこに潜んでいるか判らないが、暗闇で出逢うと人を突き仆《たお》すのである。そのからだの堅きこと鉄石のごとくであると、家内の者が語った。
 劉は猟《かり》を好んで、常に鉄砲を持ちあるいているので、それを聞いて笑った。

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