たった。その仆《たお》るる時、あたかも家根瓦の落ちて砕けるような響きを発したのである。近寄ってみると、それは毀《こわ》れた甕《かめ》の破片であった。
更にあらためると、怪物の正体はこの家にある古い甕であることが判った。
それが不思議な顔をしていたのは、小児《こども》がその甕のおもてへいたずら書きをしたのである。小児が手あたり次第に書いたのであるから、人間の顔がおかしくゆがんで、眼も鼻も勿論ととのっていない。それでも人間の顔を具《そな》えたために、こんな怪をなすようになったのかも知れないというのであった。
顔良の祠
呂城は呉の呂蒙《りょもう》の築いたものである。河をはさんで、両岸に二つの祠《やしろ》がある。
その一つは唐の名将|郭子儀《かくしぎ》の祠である。郭子儀がどうしてこんな所に祀られているのか判らない。他の一つは三国時代の袁紹《えんしょう》の部将の顔良《がんりょう》を祀ったもので、これもその由来は想像しかねるが、土地の者が祷《いの》るとすこぶる霊験があるというので、甚だ信仰されている。
それがために、その周囲十五里のあいだには関帝廟《かんていびょう》(関羽を祀る廟)を置くことを許さない。顔良は関羽《かんう》に殺されたからである。もし関帝廟を置けば必ず禍いがあると伝えられている。ある時、その土地の県令がそれを信じないで、顔良の祠の祭りのときに自分も参詣し、わざと俳優に三国志の演劇《しばい》を演じさせると、たちまちに狂風どっと吹きよせて、演劇の仮小屋の家根も舞台も宙にまき上げて投げ落したので、俳優のうちには死人も出来た。
そればかりでなく、十五里の区域内には疫病が大いに流行して、人畜の死する者おびただしく、かの県令も病いにかかって危うく死にかかったというのである。
およそ戦いに負けたといって、一々その敵を怨むことになっては、古来の名将勇士は何千人に祟《たた》られるか判らない。顔良の輩が千年の後までも関羽に祟るなど、決して有り得べきことではない。これは祠に仕える巫女《みこ》のやからが何かのことを言い触らし、愚民がそれを信ずる虚に乗じて、他の山妖水怪のたぐいが入り込んで、みだりに禍福をほしいままにするのであろう。
繍鸞
父の先妻の張夫人に繍鸞《しゅうらん》という侍女《こしもと》があった。
ある月夜に、夫人が堂の階段《きざはし》に立っ
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