か、あるいは夏の暑いときに、塩と酢をもってその器を拭いた上で血をそそぐと、いずれもその血が別々に凝結して一つに寄り合わない。そういう特殊の場合がいろいろあるから、迂闊に滴血などを信ずるのは危険であると、彼は説明した。
成程そうであろうと思われる。しかしこの場合、もし滴血をおこなわなければ、弟はおそらく上訴しなかったであろう。弟が上訴しなければ、その妻の陰事《いんじ》は摘発されなかったであろう。妻の陰事が露顕しなければ、この裁判はいつまでも落着《らくぢゃく》しなかったであろう。こうなると、あながちに役人の不用意を咎めるわけにも行かない。そのあいだには何か自然の約束があるようにも思われるではないか。
不思議な顔
蒙陰《もういん》の劉生《りゅうせい》がある時その従弟《いとこ》の家に泊まった。いろいろの話の末に、この頃この家には一種の怪物があらわれる。出没常ならず、どこに潜んでいるか判らないが、暗闇で出逢うと人を突き仆《たお》すのである。そのからだの堅きこと鉄石のごとくであると、家内の者が語った。
劉は猟《かり》を好んで、常に鉄砲を持ちあるいているので、それを聞いて笑った。
「よろしい。その怪物が出て来たらば、この鉄砲で防ぎます」
書斎は三間になっているので、彼はその東の室《へや》で寝ることにした。燈火《ともしび》にむかって独りで坐っていると、西の室から何者か現われて立った。その五体は人の如くであるが、その顔が頗る不思議で、眼と眉とのあいだは二寸ぐらいも距《はな》れているにも拘らず、鼻と口とはほとんど一つに付いているばかりか、その位置も妙に曲がっていた。顔の輪郭もまたゆがんでいる。よく見ると、不思議というよりも頗る滑稽な顔ではあるが、なにしろ一種の怪物には相違ないと見て、劉はすぐに鉄砲をとって窺うと、かれは慌てて室内へ退いて、扉のあいだから半面を出して窺っているのである。
劉が鉄砲をおろすと、彼はそろそろ出かかる。劉がふたたび鉄砲をむけると、彼はまた隠れる。そんなことを幾たびも繰り返しているうちに、彼はたちまち顔の全面をあらわして、舌を吐き、手を振って、劉を嘲《あざけ》るかのようにも見えたので、急に一発を射撃すると、弾《たま》は扉にあたって怪物の姿は隠れた。
劉は窓格子のあいだに鉄砲を伏せて、再びその現われるのを待っていると、彼はふたたび出て来て弾にあ
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