、眼《ま》のあたりに、その水鬼の姿を見たのは今が初めてであるので、張も今更のように怖ろしくなって、それを同宿の人びとに物語ると、そのなかに米あきんどがあって、自分もかつて水鬼の難に出逢ったことがあると言った。その話はこうである。
「わたしがまだ若い時のことでした。嘉興《かこう》の地方へ米を売りに行って、薄暗いときに黄泥溝《こうでいこう》を通ると、なにしろそこは泥ぶかいので、わたしは水牛を雇って、それに乗って行くことにしました。そうして、溝の中ほどまで来かかると、泥のなかから一つの黒い手が出て来て、不意にわたしの足を掴んで引き落そうとしました。こんな所では何事が起るかも知れないと思って、わたしもかねて用心していたので、すぐに足を縮めてしまうと、その黒い手はさらに水牛の足をつかんだので、牛はもう動くことが出来ない。わたしもおどろいて救いを呼ぶと、往来の人びとも加勢に駈けつけて、力をあわせて牛を牽《ひ》いたが、牛の四足は泥のなかへ吸い込まれたようになって、曳《ひ》けども押せども動かない。百計尽きて思いついたのが火牛《かぎゅう》のはかりごとで、試みに牛の尾に火をつけると、牛も熱いのに堪えられなくなったと見えて、必死の力をふるって起《た》ちあがると、ようように泥の中から足を抜くことが出来ました。それから検《あらた》めてみると、牛の腹の下には古い箒《ほうき》のようなものがしっかりと搦《から》みついていて、なかなか取れませんでした。それがまた、非常になまぐさいような臭《にお》いがして寄り付かれません。大勢が杖をもって撃ち叩くと、幽鬼のむせび泣くような声がして、したたる水はみな黒い血のしずくでした。大勢はさらに刃物でそれをずたずたに切って、柴の火へ投げ込んで焚《や》いてしまいましたが、その忌《いや》な臭いはひと月ほども消えなかったそうです。しかしそれから後は、黄泥溝で溺れ死ぬ者はなくなりました」
僵尸《きょうし》(屍体)を画く
杭州の劉以賢《りゅういけん》は肖像画を善くするを以って有名の画工であった。その隣りに親ひとり子ひとりの家があって、その父が今度病死したので、せがれは棺を買いに出る時、又その隣りの家に声をかけて行った。
「となりの劉先生は肖像画の名人ですから、今のうちに私の父の顔を写して置いてもらいたいと思います。あなたから頼んでくれませんか」
隣りの人はそれを劉に取次いだので、劉は早速に道具をたずさえて行くと、忰はまだ帰って来ないらしく、家のなかには人の影もみえなかった。しかし近所に住んでいて、その家の勝手もよく知っているので、劉は構わずに二階へあがると、寝床の上には父の死骸が横たわっていた。劉はそこにある腰掛けに腰をおろして、すぐに画筆を執りはじめると、その死骸は忽《たちま》ち起《お》きあがった。劉ははっと思うと同時に、それが走屍《そうし》というものであることを直ぐに覚《さと》った。
走屍は人を追うと伝えられている。自分が逃げれば、死骸もまた追って来るに相違ない。いっそじっとしていて、早く画をかいてしまう方がいいと覚悟をきめて、劉は身動きもしないで相手の顔を見つめていると、死骸も動かずに劉を見つめている。
その人相をよく見とどけて、劉は紙をひろげて筆を動かし始めると、死骸もおなじように臂《ひじ》を動かし、指を働かせている。劉は一生懸命に筆を動かしながら、時どきに大きい声で人を呼んだが、誰も返事をする者がない。鬼気はいよいよ人に逼《せま》って、劉の筆のさきも顫《ふる》えて来た。
そのうちに忰の帰って来たらしい足音がきこえたので、やれ嬉しやと思っていると、果たして忰は二階へあがって来たが、父の死骸がこの体《てい》であるのを見て、あっ[#「あっ」に傍点]と叫んで仆《たお》れてしまった。その声を聞きつけて、隣りの人は二階からのぞいたが、これも驚いて梯子からころげ落ちた。
こういう始末であるから、劉はますます窮した。それでも逃げることは出来ない。逃げれば追いかけて来て掴み付かれる虞《おそ》れがあるので、我慢に我慢して描きつづけていると、そこへ棺桶屋が棺を運び込んで来たので、劉はすぐに声をかけた。
「早く箒を持って来てくれ。箒草《ほうきぐさ》の箒を……」
棺桶屋はさすがに商売で、走屍などにはさのみ驚かない。走屍を撃ち倒すには箒草の箒を用いることをかねて心得ているので、劉のいうがままに箒を持って来て、かの死骸を撃ち払うと、死骸は元のごとく倒れた。気絶した者には生姜湯《しょうがゆ》を飲ませて介抱し、死骸は早々に棺に納めた。
美少年の死
京城の金魚街に徐四《じょし》という男があった。家が甚だ貧しいので、兄夫婦と同居していた。ある冬の夜に、兄は所用あって外出し、今夜は戻らないという。兄嫁は賢《さか》しい女であるので、
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