しかも色を見て動かざる鉄石心を有した者でなければ、容易にそれを実行することは出来ない」と、彼は常に人に誇っていた。
そのうちに任期が満ちて、彼は山東《さんとう》の別駕《べつが》に移されたので、家族を連れて新任地へ赴く途中、荏平《じんへい》という所の旅館に行き着いた。その旅館には一つの楼があって、厳重に扉を封鎖してあるので、彼は宿の主人に子細《しさい》をたずねると、楼中にはしばしば怪しいことがあるので、多年開かないのであると答えた。それを聞いて、彼はあざ笑った。
「それではおれをあの楼に泊めてくれ」
「お泊まりになりますか」
「なんの怖いことがあるものか。おれの威名を聞けば、大抵の化け物は向うから退却してしまうに決まっているのだ」
それでも主人は万一を気づかってさえぎった。彼の妻子らもしきりに諫めた。しかも強情我慢の彼はどうしても肯《き》かないのである。
「おまえ達はほかの部屋に寝ろ。おれはどうしてもあの楼に一夜を明かすのだ」
あくまでも強情を張り通して、彼は妻子|眷族《けんぞく》を別室に宿らせ、自分ひとりは剣を握り、燭《しょく》をたずさえ、楼に登って妖怪のあらわれるのを待っていると、宵のうちには別に何事もなかったが、夜も三更《さんこう》(午後十一時―午前一時)に至る時、扉をたたいて進み入ったのは、白い鬚《ひげ》を垂れて紅い冠《かんむり》をかぶった老人で、朱鑠を仰いでうやうやしく一揖《いちゆう》した。
「貴様はなんの化け物だ」と、朱は叱り付けた。
「それがしは妖怪ではござらぬ。このあたりの土地の神でござる。あなたのような貴人がここへお出でになったのは、まさに妖怪どもが殲滅《せんめつ》の時節到来いたしたものと思われます。それゆえ喜んでお出迎いに罷《まか》り出でました」
老人はまず自分の身の上を明かした後に、朱にむかって斯《こ》ういうことを頼んだ。
「もう暫くお待ちになると、やがて妖怪があらわれて参ります。その姿が見えましたならば、その剣をぬいて片端からお斬り捨てください。及ばずながらそれがしも御助力いたします」
「よし、よし、承知した」と、朱は喜んで引き受けた。
「なにぶんお願い申します」
約束を固めて老人は立ち去った。朱は剣を按じて、さあ来いと待ちかまえていると、果たして青い面《かお》の者、白い面の者、種々の怪しい者がつづいてこの室内に入り込んで来たので、彼は手あたり次第にばたばたと斬り倒した。最後に牙《きば》の長いくちばしの黒い者があらわれたので、彼はそれをも斬り伏せた。もうあとに続く者はない。これで妖怪を残らず退治したかと思うと、彼は大いなる満足と愉快を感じて、すぐに旅館の主人を呼んだ。
その頃にはもう早い※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《とり》が啼いていた。主人をはじめ家内の者どもが燭を照らして駈けつけて見ると、床には幾個の死骸が横たわっていた。それをひと目見て、人々はおどろいて叫んだ。
「あなたは大変なことをなされました」
倒れている死骸は、朱の妻や妾や、忰や娘であった。最後に斬られたのは従僕であったらしい。かれらは主人の安否を気づかって、ひそかに様子をうかがいに来たところを、片端から斬り倒されたのであろう。そう判ると、朱は声をあげて嘆いた。
「化け物め。すっかりおれを玩具《おもちゃ》にしやあがった」
言うかと思うと、彼もそこに倒れたままで息が絶えた。
水鬼の箒
張鴻業《ちょうこうぎょう》という人が秦淮《しんわい》へ行って、潘《はん》なにがしの家に寄寓していた。その房《へや》は河に面したところにあった。ある夏の夜に、張が起きて厠《かわや》へゆくと、夜は三更を過ぎて、世間に人の声は絶えていたが、月は大きく明るいので、張は欄干《らんかん》によって暫くその月光を仰いでいると、たちまち水中に声あって、ひとりの人間のあたまが水の上に浮かみ出た。
「この夜ふけに泳ぐ奴があるのかしら」
不審に思いながら、月あかりに透かしみると、黒いからだの者が水中に立っていた。顔は眼も鼻も無いのっぺらぽう[#「のっぺらぽう」に傍点]で、頸《くび》も動かない。さながら木偶《でく》の坊《ぼう》のようなものである。張はその怪物にむかって石を投げ付けると、彼はふたたび水の底に沈んでしまった。
事件は単にそれだけのことであったが、明くる日の午後、ひとりの男がその河のなかで溺死したという話を聞いて、さては昨夜の怪物は世にいう水鬼《すいき》であったことを張は初めて覚《さと》った。
水鬼は命《めい》を索《もと》めるという諺があって、水に死んだ者のたましいは、その身代りを求めない以上は、いつまでも成仏《じょうぶつ》できないのである。したがって、水鬼は誰かを水中に引き込んで、その命《いのち》を取ろうとすると言い伝えられているが
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