夫の出たあとで徐四に言った。
「今夜は北風が寒いから、煖坑《だんこう》(床下に火を焚いて、その上に寝るのである)でなければ、とても寝られますまい。しかしこの家《うち》にはたった一つの煖坑しかないのですから、夫の留守にあなたと一つ床に枕をならべて寝るわけには行きません。わたしは母の家へ帰って寝かしてもらうことにしますから、あなた一人でお寝《やす》みなさい」
義弟は承知して出してやった。表には寒い風が吹きまくって、月のひかりが薄あかるい。その夜も二更《にこう》とおぼしき頃に、門をたたいて駈け込んで来た者がある。それは一個の美少年で、手に一つの嚢《ふくろ》をさげていた。徐四が怪しんで問うまでもなく、少年は泣いて頼んだ。
「どうぞ救ってください。わたしは実は男ではありません。後生《ごしょう》ですから、なんにも聞かずに今夜だけ泊めてください。そのお礼にはこれを差し上げます」
少年はふくろを解いて、見ごとな毛裘《けごろも》をとり出した。それは貂《てん》の皮で作られたもので、金や珠の頸かざりが燦然《さんぜん》として輝いているのを見れば、捨て売りにしても価い万金という代物《しろもの》である。徐四もまだ年が若い。相手が美しい女で、しかも高価の宝をいだいているのを見て、こころ頗《すこぶ》る動いたが、かんがえてみるとどうも唯者でない。迂闊に泊めてやって、どんな禍いを招くようなことになるかも知れない。さりとて情《すげ》なく断わるにも忍びないので、かれは咄嗟の思案でこう答えた。
「では、まあともかくも休んでおいでなさい。となりへ行ってちょっと相談して来ますから」
女を煖坑の上に坐らせて、徐四はすぐに表へ出て行ったが、となりの人に相談したところで仕様がないと思ったので、かれは近所の善覚寺《ぜんかくじ》という寺へかけ付けて、方丈《ほうじょう》の円智《えんち》という僧をよび起して相談することにした。円智はここらでも有名の高僧で、徐四も平素から尊敬しているのであった。
その話を聴いて、円智も眉をひそめた。
「それはおそらく高位顕官の家のむすめか妾で、なにかの子細あって家出したものであろう。それをみだりに留めて置いては、なにかの連坐《まきぞえ》を受けないとも限らない。さりとて追い出すのも気の毒であると思うならば、おまえは今夜この寺に泊まって家へ戻らぬ方がよい。万一の場合には、わたしの留守の間に入り込んで来たのだといえば、申し訳は立つ。夜が明ければ、女はどこへか立ち去るに相違ないから、その時刻を見計らって帰ることにしなさい」
なるほどと徐四もうなずいて、その夜を善覚寺で明かすことにした。それで済めば無事であったが、外宿した徐四の兄は夜ふけの寒さに堪えかねて、わが家へ毛皮の衣《きもの》を取りに帰ると、寝床の煖坑の下には男の沓《くつ》がぬいである。見れば、男と女とが一つ衾《よぎ》に眠っている。さてはおれの留守の間に、妻と弟めが不義をはたらいたかと、彼は烈火の怒りに前後をかえりみず、腰に帯びている剣をぬいて、枕をならべている男と女の首をばたばたと斬り落した。
言うまでもなく、それは兄の思いちがいで、女はかの美少年であった。男は善覚寺の若僧《にゃくそう》であった。
高僧の弟子にも破戒のやからがあって、かの若僧は徐四の話を洩れ聴いて不埒の料簡を起したらしく、そっと寺ちゅうをぬけ出して徐四の留守宅へ忍び込んだのである。それから先はどうしたのか、勿論わからない。
あやまって二人を殺したことを発見して、兄はすぐに自首して出た。しかし右の事情であるから、誤殺であることは明白である。美少年と若僧とは不義姦通である。殺したものに悪意なくして、殺された者どもは不義のやからであるというので、兄は無事に釈放された。
ここに判らないのは、美少年に扮していたかの女の身の上である。官でその首を市《いち》にかけて、心あたりの者を求めたが、誰も名乗って出る者はなかった。
「可哀そうに、あの女はここの家へ死にに来たようなものだ」
徐四は形見《かたみ》の毛裘や頸飾りを売って、その金を善覚寺に納め、永く彼女の菩提を弔った。
秦の毛人
湖広に房山《ぼうざん》という高い山がある。山は甚だ嶮峻で、四面にたくさんの洞窟があって、それがあたかも房《へや》のような形をなしているので、房山と呼ばれることになったのである。
その山には毛人《もうじん》という者が棲んでいる。身のたけ一丈余で、全身が毛につつまれているので、人呼んで毛人というのである。この毛人らは洞窟のうちに棲んでいるらしいが、時どきに里へ降りて来て、人家の※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]や犬などを捕り啖《くら》うことがある。迂闊にそれをさえぎろうとすると、かれらはなかなかの大力で、大抵の人間は投げ出されたり、撲《なぐ
前へ
次へ
全9ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング