ずほっとして、ふたたび彼に手枷足枷をかけて獄屋のなかに押し込んで置いた。
夜が明けると、昨夜三更、張府に盗賊が忍び入って財物をぬすみ、府門に「我来也」と書いて行ったという報告があった。
「あぶなくこの裁判を誤まるところであった。彼が白状しないのも無理はない。我来也はほかにあるのだ」と、役人は言った。
我来也の疑いを受けた賊は、叩きの刑を受けて境外へ追放された。獄卒は我が家へ帰ると、妻が言った。
「ゆうべ夜なかに門を叩く者があるので、あなたが帰ったのかと思って門をあけると、一人の男が、二つの布嚢《ぬのぶくろ》をほうり込んで行きました」
そのふくろをあけて見ると、みな金銀の器《うつわ》で、賊は張府で盗んだ品を獄卒に贈ったものと知られた。趙尚書は明察の人物であったが、遂に我来也の奸計を覚《さと》らなかったのである。
獄卒はやがて役を罷《や》めて、ふところ手で一生を安楽に暮らした。その歿後、せがれは家産を守ることが出来ないで全部|蕩尽《とうじん》、そのときに初めてこの秘密を他人に洩らした。[#地から1字上げ](諧史)
海井
華亭《かてい》県の市中に小道具屋があった。その店に一つの物、それは小桶に似て底がなく、竹でもなく、木でもなく、金でもなく、石でもなく、名も知れなければ使い途も知れなかった。店に置くこと数年、誰も見かえる者もなかった。
ある日、商船の老人がそれを見て大いにおどろき、また喜んだ気色《けしき》で、しきりにそれを撫でまわしていたが、やがてその値いを訊いた。道具屋の亭主もぬかりなく、これは何かの用に立つものと看《み》て取って、出たらめに五百|緡《びん》と吹っかけると、老人は笑って三百緡に負けさせた。その取引きが済んだ後に、亭主は言った。
「実はこれは何という物か、わたしも知らないのです。こうして取引きが済んだ以上、決してかれこれは申しませんから、どうぞ教えてください」
「これは世にめずらしい宝だ」と、老人は言った。「その名を海井《かいせい》という。普通の航海には飲料として淡水を積んで行くのが習い、しかもこれがあれば心配はない。海の水を汲んで大きいうつわに満々とたたえ、そのなかに海井を置けば、潮水は変じて清い水となる。異国の商人からかねてその話を聞いていたが、わたしも見るのは今が始めで、これが手に入れば、もう占めたものだ」[#地から1字上げ](
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