癸辛雑識続集)

   報寃蛇

 南粤《なんえつ》の習いとして蠱毒呪詛《こどくじゅそ》をたっとび、それに因って人を殺し、又それによって人を救うこともある。もし人を殺そうとして仕損ずる時は、かえっておのれを斃《たお》すことがある。
 かつて南中に遊ぶ人があって、日盛りを歩いて林の下に休んでいる時、二尺ばかりの青い蛇を見たので、たわむれに杖をもって撃つと、蛇はそのまま立ち去った。旅びとはそれから何だか体の工合いがよくないように感じられた。
 その晩の宿に着くと、旅舎の主人が怪しんで訊いた。
「あなたの面《かお》には毒気があらわれているようですが、どうかなさいましたか」
 旅人はぼんやりして、なんだか判《わか》らなかった。
「きょうの道中にどんな事がありましたか」と、主人はまた訊いた。
 旅人はありのままに答えると、主人はうなずいた。
「それはいわゆる『報寃蛇《ほうえんだ》』です。人がそれに手出しをすれば、百里の遠くまでも追って来て、かならず其の人の心《むね》を噬《か》みます。その蛇は今夜きっと来るでしょう」
 旅人は懼《おそ》れて救いを求めると、主人は承知して、龕《がん》のなかに供えてある竹筒を取り出し、押し頂いて彼に授けた。
「構わないから唯《ただ》これを枕もとにお置きなさい。夜通し燈火《あかり》をつけて、寝た振りをして待っていて、物音がきこえたらこの筒をお明けなさい」
 その通りにして待っていると、果たして夜半に家根瓦のあいだで物音がきこえて、やがて何物か几《つくえ》の上に堕《お》ちて来た。竹筒のなかでもそれに応《こた》えるように、がさがさいう音がきこえた。そこで、筒をひらくと、一尺ばかりの蜈蚣《むかで》が這い出して、旅人のからだを三度廻って、また直ぐに几の上に復《かえ》って、暫くして筒のなかに戻った。それと同時に、旅人は俄かに体力のすこやかになったのを覚えた。
 夜が明けて見ると、きのうの昼間に見た青い蛇がそこに斃《たお》れていた。旅人は主人の話の嘘でないことを初めてさとって、あつく礼を述べて立ち去った。
 又こんな話もある。旅人が日暮れて宿に行き着くと、旅舎の主人と息子が客の荷物をじろじろと眺めている。その様子が怪しいので、ひそかに主人らの挙動をうかがっていると、父子は一幅の猴《さる》の絵像を取り出して、うやうやしく祷《いの》っていた。
 旅人は僕《しもべ》に
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