の家に留めて置いたので、※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]のほろびる時にもその子は難をまぬかれた。生長の後、その子は果たして文学に達し、書を善くし、名声を一代に知られた。[#地から1字上げ](白猿伝)

   女侠

 唐の貞元年中、博陵《はくりょう》の崔慎思《さいしんし》が進士《しんし》に挙げられて上京したが、京に然るべき第宅《ていたく》がないので、他人の別室を借りていた。家主は別の母屋《おもや》に住んでいたが、男らしい者は一人も見えず、三十ぐらいの容貌《きりょう》のよい女と唯ふたりの女中がいるばかりであった。崔は自分の意を通じて、その女を妻にしたいと申し入れると、彼女は答えた。
「わたくしは人に仕えることの出来る者ではありません。あなたとは不釣合いです。なまじいに結婚して後日《ごじつ》の恨みを残すような事があってはなりません」
 それでは妾《めかけ》になってくれと言うと、女は承知した。しかも彼女は自分の姓を名乗らなかった。そうして二年あまりも一緒に暮らすうちに、ひとりの子を儲けた。それから数月の後、ある夜のことである。崔は戸を閉じ、帷《とばり》を垂れて寝《しん》に就くと、夜なかに女の姿が見えなくなった。
 崔はおどろいて、さては他に姦夫《かんぷ》があるのかと、憤怒《いきどおり》に堪えぬままに起き出でて室外をさまよっている時、おぼろの月のひかりに照らされて、彼女は屋上から飛び降りて来た。白の練絹を身にまとって、右の手には、匕首《あいくち》、左の手には一人の首をたずさえているのである。
「わたくしの父は罪なくして郡守に殺されました。その仇を報ずるために、城中に入り込んで数年を送りましたが、今や本意を遂げました。ここに長居は出来ません。もうお暇《いとま》をいたします」
 彼女は身支度して、かの首をふくろに収め、それを小脇にかかえて言った。
「わたくしは二年間あなたのお世話になりまして、幸いに一人の子を儲けました。この住居も二人の奉公人もすべてあなたに差し上げますから、どうぞ子供の養育を願います」
 男に別れて墻《かき》を越え、家を越えて立ち去ったので、崔も暫くはただ驚嘆するのみであった。やがて女はまた引っ返して来た。
「子供に乳をやって行くのを忘れましたから、ちょっと飲ませて来ます」
 彼女は室内にはいったが、やや暫くして出て来た。
「乳をたんと飲ませました」
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