んじ》を書いた。それが何のまじないであるかは、誰にもわからなかった。
 あくる朝になると、宮中から急使が来て、一行は皇帝の前に召出された。
「不思議のことがある」と、玄宗は言った。「太史《たいし》(史官)の奏上《そうじょう》によると、昨夜は北斗《ほくと》七星が光りを隠《かく》したということである。それは何の祥《しょう》であろう。師にその禍いを攘《はら》う術があるか」
「北斗が見えぬとは容易ならぬことでござります」と、一行は言った。「御用心なさらねばなりませぬ。匹夫《ひっぷ》匹婦《ひっぷ》もその所を得ざれば、夏に霜を降らすこともあり、大いに旱《ひでり》することもござります。釈門《しゃくもん》の教えとしては、いっさいの善慈心をもって、いっさいの魔を降すのほかはござりませぬ」
 彼は天下に大赦《たいしゃ》の令をくだすことを勧《すす》めて、皇帝もそれにしたがった。その晩に、太史がまた奏上した。
「北斗星が今夜は一つ現われました」
 それから毎晩一つずつの星が殖えて、七日の後には七星が今までの通りに光り輝いた。大赦の令によって王婆の息子が救われたのは言うまでもない。

   駅舎の一夜

 孟不疑《もうふぎ》という挙人《きょじん》(進士《しんし》の試験に応ずる資格のある者)があった。昭義《しょうぎ》の地方に旅寝して、ある夜ある駅に泊まって、まさに足をすすごうとしているところへ、※[#「さんずい+「緇」のつくり」、第3水準1−86−81]青《しせい》の張《ちょう》という役人が数十人の供を連れて、おなじ旅舎へ乗り込んで来た。相手が高官とみて、孟は挨拶に出たが、張は酒を飲んでいて顧りみないので、孟はその倨傲《きょごう》を憤りながら、自分は西の部屋へ退いた。
 張は酔った勢いで、しきりに威張り散らしていた。大きい声で駅の役人を呼び付けて、焼餅《しょうべい》を持って来いと呶鳴った。どうも横暴な奴だと、孟はいよいよ不快を感じながら、ひそかにその様子をうかがっていると、暫くして注文の焼餅を運んで来たので、孟はまた覗いてみると、その焼餅を盛った盤《ばん》にしたがって、一つの黒い物が入り込んで来た。それは猪《しし》のようなものであるらしく、燈火《あかり》の下へ来てその影は消えた。張は勿論、ほかの者もそれに気が注《つ》かなかったらしいが、孟は俄かに恐怖をおぼえた。
「あれは何だろう」
 孤駅のゆうべにこの怪を見て、孟はどうしても眠ることが出来なかったが、張は酔って高|鼾《いびき》で寝てしまった。供の者は遠い部屋に退いて、張の寝間は彼ひとりであった。その夜も三更《さんこう》(午後十一時―午前一時)に及ぶころおいに、孟もさすがに疲れてうとうとと眠ったかと思うと、唯ならぬ物音にたちまち驚き醒めた。一人の黒い衣《きもの》を着た男が張と取っ組み合っているのである。やがて組んだままで東の部屋へ転げ込んで、たがいに撲《なぐ》り合う拳《こぶし》の音が杵《きね》のようにきこえた。孟は息を殺してその成り行きをうかがっていると、暫くして張は散らし髪の両肌ぬぎで出て来て、そのまま自分の寝床にあがって、さも疲れたように再び高鼾で寝てしまった。
 五更《ごこう》(午前三時―五時)に至って、張はまた起きた。僕《しもべ》を呼んで燈火をつけさせ、髪をくしけずり、衣服をととのえて、改めて同宿の孟に挨拶した。
「昨夜は酔っていたので、あなたのことをちっとも知らず、甚だ失礼をいたしました」
 それから食事を言い付けて、孟と一緒に仲よく箸をとった。そのあいだに、彼は小声で言った。
「いや、まだほかにもお詫びを致すことがある。昨夜は甚だお恥かしいところを御覧《ごらん》に入れました。どうぞ幾重にも御内分にねがいます」
 相手があやまるように頼むので、孟はその上に押して聞くのを遠慮して、ただ、はいはいとうなずいていると、張は自分も早く出発する筈であるが、あなたもお構いなくお先へお発ち下さいと言った。別れるときに、張は靴の中から金一|※[#「金+廷」、第3水準1−93−17]《てい》を探り出して孟に贈って、ゆうべのことは必ず他言して下さるなと念を押した。
 何がなんだか判らないが、孟は張に別れて早々にここを出発した。まだ明け切らない路を急いで、およそ五、六里も行ったかと思うと、人殺しの賊を捕えるといって、役人どもが立ち騒いでいるのを見た。その子細《しさい》を聞きただすと、※[#「さんずい+「緇」のつくり」、第3水準1−86−81]青の評事の役を勤める張という人が殺されたというのである。孟はおどろいて更に詳しく聞き合わせると、賊に殺されたと言っているけれども、張が実際の死にざまは頗る奇怪なものであった。
 孟がひと足さきに出たあとで、張の供の者どもは、出発の用意を整えて、主人と共に駅舎を出た。あかつきはまだ
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