うに何事かささやくと、義助もおどろいたように眼をみはった。二人は無言でしばらく顔を見あわせていたが、義助は茶屋の婆さんに向って小声で訊いた。
「あの毛皮売のじいさんは何という男だね。」
「その奈良井の宿《しゅく》はずれに住んでいる男で、伊平と申します。」
「あの娘の名は。」
「お糸といいます。」
 それからだんだん詮議すると、お糸は伊平の娘でも孫でもなく、去年の秋ももう寒くなりかかった夕ぐれに、ひとりの若い娘が落葉を浴びながら伊平の門口《かどぐち》に立って、今夜泊めてくれと頼んだ。ひとり旅の女を泊めるのは迷惑だとも思ったが、その頼りない姿が不憫でもあるので、伊平は宿《しゅく》の役人に届けた上で、娘に一夜のやどりを許すことになると、その夜なかに伊平は俄に発熱して苦しみ出した。
 伊平は独り者で、病気は風邪をこじらせたのであったが、幸いに娘が泊り合せていたので、彼は親切な介抱をうけた。独り身の病人を見捨てては出られないので、娘はその次の日も留まって看病していたが伊平は容易に起きられなかった。そして、三日過ぎ、五日を送って、伊平が元のからだになるまでには小半月を過ぎてしまった。そのあいだ、か
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