みながらあたりの春景色を眺めていると、さっきから婆さんと客の話の途切れるのを待っていたらしく、店さきの山桜の大樹のかげから、ひとりの男が姿をあらわした。かれは六十前後、見るから山国育ちの頑丈そうな大男で、小脇には二、三枚の毛皮をかかえていた。
「もし、お江戸のお客さま。熊の皮を買って下さらんかな。」と、彼は見掛けによらない優しい声で言った。
 熊の皮、熊の胆《い》を売るのは、そのころの木曾路の習いで、この一行はここまで来るあいだにも、たびたびこの毛皮売に付きまとわれているので、手代の義助はまたかという顔をして無愛想に断った。
「いや、熊の皮なんぞはいらない、いらない。おれ達は江戸へ帰れば、虎の皮をふんどしにしているのだ。」
「はは、鬼じゃあるまいに……。」と、男は笑った。「そんな冗談を言わないで、一枚おみやげに買ってください。だんだん暖かくなると毛皮も売れなくなる。今のうち廉《やす》く売ります。」
「廉くっても高くっても断る。」と、梅次郎も口を出した。「わたしらは町人だ。熊の皮の敷皮にも坐れまいじゃないか。そんな物はお武家を見かけて売ることだ。」
 揃いも揃って剣もほろろに断られたが、
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