七兵衛はすぐに起きた。
「なんだ、何だ。」
「あの、鼠が……。」
言ううちに、鼠はお此の衾の上を飛びおりて、蚊帳の外へ素早く逃げ去った。暗いなかではあるが畳を走る足音を聞いて、それが鼠であるらしいことを七兵衛も察した。
「おまえさん。確かに鼠ですよ。」と、お此は気味悪そうにささやいた。
「むむ。そうらしい。」
それぎりで夫婦は再び枕につくと、やがてお此は再び夫をゆり起して、今度は鼠が自分の顔や頭の上をかけ廻るというのである。それが夢でもないことは、今度も七兵衛の耳に鼠の足音を聞いたのである。もう打捨てては置かれないので、七兵衛は床の上に起き直って枕もとの燧石《ひうちいし》を擦った。有明行燈の火に照らされた蚊帳の中には、鼠らしい物の姿も見いだされなかった。念のために衾や蒲団を振ってみたが、いたずら者はどこにも忍んでいなかった。
「行燈を消さずに置いてください。」
言い知れない恐怖に襲われたお此は、夜の明けるまで、一睡も出来なかった。七兵衛もそのお相伴《しょうばん》で、おちおち眠られなかった。この頃の夜は短いので、わびしい雨戸の隙間が薄明るくなったかと思うと、ぬき足をして縁側の障子の
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