。さりとて取留めた証拠もなしに、多年無事に勤めている奉公人、殊に先ごろは自分の供をして長い道中をつづけて来た義助を無造作に放逐することも出来ないので、ただ無言のうちにかれらを監視するのほかはなかった。
うしなった娘を連れ戻って、一旦は俄に明るくなった近江屋の一家内には、またもや暗い影がさして、主人夫婦はとかくに内所話をする日が多くなった。この年は梅雨《つゆ》が長くつづいて、六月の初めになっても毎日じめじめしているのも、近江屋夫婦の心をいよいよ暗くした。
その六月はじめの或る夜である。奥の八畳に寝ていたお此がふと眼をさますと、衾《よぎ》の襟のあたりに何か歩いているように感じられた。枕もとの有明行燈《ありあけあんどう》は消えているので、その物のすがたは見えなかったが、お此は咄嗟のあいだに覚った。
「あ、鼠……。」
息を殺してうかがっていると、それは確かに小鼠で、お此の衾の襟から裾のあたりをちょろちょろと駈けめぐっているのである。お此は俄にぞっとして少しくわが身を起しながら、隣りの寝床にいる七兵衛の衾の袖をつかんで、小声で呼び起した。
「おまえさん……。起きてくださいよ。」
眼ざとい
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