、恋しいお園にも別れて、西も東も知らない他国へ行って、当分は苦しい辛抱をするよりほかはないと心細くも覚悟した。
「では、親方さん。いよいよ江戸へ行くことにいたします」
「それがいい。なに、多寡が二年か三年の辛抱じゃ。いい時分には俺の方から呼び戻してやる。せいぜい腕を磨いて、大坂者を驚かすような立派な職人になって帰って来い。人間は腕次第じゃ。お前がいい腕をもっていれば、今までお前を悪う言った者も、向うから頭をさげて頼んで来るようにもなる」
 親方は江戸の或る棟梁に宛てた手紙を書いてくれて、これを持って行けばきっと面倒を見てくれると言った。初旅であるから気をつけろと、道中の心得などもいろいろ言い聞かしてくれた。旅の支度もしてくれた、路用もくれた。兄弟子たちも思い思いに餞別《せんべつ》をくれた。みんなの親切が身にしみて嬉しいに付けても、六三郎はこの親切な人びとに別れて、他国の他人の中へ踏み出すのがいよいよ辛かった。彼は人の見ない所で時どき涙をふいた。
 二十日《はつか》は日がいいというので、いよいよその朝に草鞋《わらじ》を穿くことになった。その前の日に六三郎は母の寺詣りに行きたいと言った。

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