人は愁《うれ》いを打ち消そうとして杯を重ねた。三月も半ばを過ぎて、浪華の花を散らす春雨は夜の更けるまでしめやかに聞えた。
「家でも案じていると悪い。殊にあしたは早発ちじゃ。名残は惜しいが、もうそろそろと帰りなさんせ」と、しばらくしてお園は男の顔を見ながら優しく言った。
「ほんにそうじゃ。六三めは昼から家を出て、今頃までどこに何をしていることかと、親方も定めて案じているであろう。折角の発ちぎわに叱られてはならぬ」
「ほほ、親方も粋《すい》じゃ。大抵はこうと察していさんしょう」と、お園は笑った。
 六三郎も黙って笑った。お園はその耳に口を寄せて言った。
「お前、江戸の女子《おなご》と心安うしなさんすな、よいかえ」
「なんの、阿房《あほう》らしい」
 ようよう起ち上がった六三郎のうしろ姿を見ると、お園は急に胸がいっぱいになった。ふた足三足送ってゆくうちに、胸はいよいよ詰まってきて、不思議な暗い影がお園の周《まわ》りにまつわって来るように思われた。お園は男といっしょに闇の中を迷っているようにも感じられて、一種の恐怖に足がすくんだ。力のない男の歩みも遅かった。
 どう考えてもこの弱々しい男を、見も知らぬ遠い他国へ追いやって、たんと苦労させるのがいじらしかった。苦労をする男も辛《つら》いには相違ないが、これから先、朝に夕にその苦労を思いやる自分の辛さもしみじみ思いやられた。そんな苦しい思いをした上で、確かに末の楽しみがあるやらないやら、それもお園は俄かに不安になって来た。眼の前はいよいよ暗くなって来た。
「六三《ろくさ》さん。お前、どうしても江戸へ行く気かえ」と、お園は男の肩に手をかけて今更のように念を押した。
 男は不思議そうな顔をして立ちどまった。蒼白い顔と顔とが向き合った。お園は暗い影につつまれてしまったように感じた。
 夜の春雨はやはりしとしと[#「しとしと」に傍点]と降っていた。

 雨は明くる朝まで降りやまないで、西横堀の川端に死屍《しかばね》をさらした男と女との生《なま》なましい血を洗い流した。男は鑿《のみ》で咽喉《のど》を突き破っていた。女は剃刀《かみそり》で同じく咽喉を掻き切っていた。検視の末に、それが大工の六三郎と遊女のお園とであることは直ぐに判ったが、二人がいつ新屋敷をぬけ出したのか誰も知らなかった。なぜこの西横堀を死場所にえらんだのか、それも誰にも判断が
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