つかなかった。
 六三郎は懐ろに書置きを持っていた。それは親方に宛てたもので、単に御恩を仇《あだ》に心得違いをして相済まないという意味が認《したた》めてあった。お園は自分と仲のいい朋輩に宛てて一通の書置きを残してあった。それには六三さんを江戸へやるのがいかにも可哀そうだから一緒に死ぬということが書いてあった。お園が六三郎とそれほどの深い仲であったというのが今になって初めて判った。仲のいい朋輩すらもこの書置きを受け取るまでは、勤め盛り売れ盛りのお園が大工の丁稚と命賭けの恋に落ちていようとは思いもつかなかった。
「よくよく運が悪う生まれたのじゃ」と、親方は泣いて六三郎の死骸を引き取ろうとしたが、時の法律によって直ぐに引き取ることを許されなかった。心中したお園と六三郎との死骸は、千日寺のうしろにある俗に灰山という所に三日のあいださらされた。罪ある父の首を梟《さら》された場所を去らずに、その子は恋の亡骸《むくろ》を晒《さら》したのであった。
 三日の後に六三郎の死骸は親方に引き渡された。お園は身寄りもないので主人に引き渡された。
 お園と六三郎とが心中した日に、神崎では御駕籠の十右衛門という者が大勢の馬士《まご》を斬った。新しい材料はそれからそれへと殖えて来るので、浄瑠璃の作者もその取捨《しゅしゃ》に苦しんだが、豊竹座ではお園六三郎と、かしくと、十右衛門と、その三つの事件を一つに組み合わせて、八重霞浪華浜荻《やえがすみなにわのはまおぎ》という新浄瑠璃をその月の二十六日から興行することになった。
 お園と六三郎との名はとうとう浄瑠璃に唄われてしまった。しかし近松の時代と違って、事実を有りのままに仕組むということは遠慮しなければならないような習わしになっていたので、大工の六三郎は武士に作り替えられて、大和の浪人小柴六三郎という名を番附にしるされた。



底本:「江戸情話集」光文社時代小説文庫、光文社
   1993(平成5)年12月20日初版1刷発行
入力:tatsuki
校正:かとうかおり
2000年6月10日公開
2008年10月3日修正
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