まだほんとうに好くないらしく、蒼い顔をして早々に帰りましたので、父も母も気の毒そうに見送っていました。
 それが因《もと》というわけでもないでしょうが、井田さんはその後間もなくぶらぶら病いで床について、その年の十月にとうとういけなくなってしまいました。その辞世の句は、上五文字をわすれましたが「猿の眼に沁む秋の風」というのだったそうで、父はまた考えていました。
「辞世にまで猿の眼を詠むようでは、やっぱり猿の一件が祟《たた》っていたのかも知れない。」
 そうは言っても、父は相変らず離れの四畳半に机をひかえて、好きな俳諧に日を送っているうちに、お弟子もだんだんに出来ました。どうにかこうにか一人前の宗匠株になりましたのでございます。
 それから三年ほどは無事に済みまして、明治十年、御承知の西南戦争のあった年でございます。その時に父は四十一、わたくしは十七になっておりましたが、その年の三月末に孝平という男がぶらりと尋ねてまいりました。以前は吉原の幇間であったのですが、師匠に破門されて廓《くるわ》にもいられず、今では下谷《したや》で小さい骨董屋のようなことを始め、傍らには昔なじみのお客のところを廻
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