不安に襲われながら、声を張りあげてしきりに彼の名を呼んでいると、杉のあいだから赤座は迷うように、ふらふらと出て来た。
「寒い、寒い。」と、彼は口の中で言った。
「寒いとも……。日が暮れたら急に寒くなる。早く宿へ来て炉の火にあたりたまえ。それとも先にお詣りをして行くのか。」
 それには答えないで、彼は無言で右の手を僕のまえにつき出した。薄暗いなかで透かしてみると、その人差指と中指とに生血《なまち》がにじみ出しているらしかった。木の枝にでも突っかけて怪我をしたのだろうと察したので、僕は袂をさぐって原稿紙の反古《ほご》を出した。
「まあ、ともかくもこれで押さえておいて、早く宿へ来たまえよ。」
 彼はやはりなんにも言わないで、僕の手からその原稿紙を受取って、自分の右の手の甲を掩ったかと思うと、またそのまますたすたあるき出した。あと戻りをするのではなく、どこまでも山の上を目ざして登るらしい。僕はおどろいてまた呼び止めた。
「おい、君。これから山へ登ってどうするんだ。山へはあした案内する。きょうはもう帰る方がいいよ。途中で暗くなったら大変だ。」
 こんな注意を耳にもかけないように、赤座は強情に登っ
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