ら無理に彼をおさえつけて、どうしてもその職を去ることを許さないらしい。それに対して、彼にも非常の煩悶《はんもん》があったらしく、こんなことなら、なんのために生きているのか判らない。いっそ自分のあずかっている社《やしろ》に火をつけて、自分も一緒に焼け死んでしまった方がましかも知れないなどと、ずいぶん過激なことを書いてよこしたこともあったように記憶している。送別会に列席した七、八人の友だちも職業や家庭の事情で皆それぞれに諸方へ散ってしまって、依然東京に居残っているものは村野という男と僕とたった二人、しかも村野はひどく筆|不精《ぶしょう》な質《たち》で、赤座の手紙に対して三度に一度ぐらいしか返事をやらないので、自然に双方のあいだが疎《うと》くなって、しまいまで彼と手紙の往復をつづけているものは僕一人であったらしい。
 赤座の手紙は、毎月一度ぐらいずつ必ず僕の手にとどいた。僕もその都度《つど》にかならず返事をかいてやった。こうして二年ほどつづいている間に、彼の心機はどう転換したものか、自分が現在の境遇に対して不満を訴えることが、だんだんに少なくなった。しまいには愚痴らしいことは一と言もいわず、
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