れている平助もおのずと佗しい思いを誘い出されるような夜であった。肌寒いので炉の火を強く焚いて、平助は宵から例の一合の酒をちびりちびりと飲みはじめると、ふだんから下戸だといっている座頭は黙って炉の前に坐っていた。
「あ。」
 座頭はやがて口のうちで言った。それに驚かされて、平助も思わず顔をあげると、小屋の外には何かぴちゃぴちゃいう音が雨のなかにきこえた。
「何かな。魚かな。」と、座頭は言った。
「そうだ。魚だ。」と、平助は起《た》ちあがった。「この雨で水が殖えたので、なにか大きい奴が跳ねあがったと見えるぞ。」
 平助はそこにかけてある蓑《みの》を引っかけて、小さい掬《すく》い網を持って小屋を出ると、外には風まじりの雨が暗く降りしきっているので、いつもほどの水明かりも見えなかったが、その薄暗い岸の上に一|尾《ぴき》の大きい魚の跳ねまわっているのが、おぼろげにうかがわれた。
「ああ、鱸《すずき》だ。こいつは大きいぞ。」
 鱸は強い魚であることを知っているので、平助も用心して抑えにかかったが、魚は予想以上に大きく、どうしても三尺を越えているらしいので、小さい網では所詮《しょせん》掬うことは出来
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