らない。どこから出て来て、どこへ帰るのか、わざわざそのあとを付けて行った者もないので、誰にもよく判らなかった。ここの渡しは明け六つに始まって、ゆう七つに終る。彼はそのあいだここに立ち暮らして、渡しの止まるのを合図にどこへか消えるように立去ってしまうのである。朝から晩までこうしていても、別に弁当の用意をして来るらしくもみえない。渡し小屋に寝起きをしている平助という爺《じい》さんが余りに気の毒に思って、あるとき大きい握り飯を二つこしらえてやると、その時ばかりは彼も大層よろこんでその一つを旨そうに食った。そうして、その礼だと言って一文銭を平助に出した。もとより礼を貰う料簡もないので、平助はいらないと断ったが、彼は無理に押付けて行った。
それが例となって、平助の小屋では毎日大きい握り飯を一つこしらえてやると、彼はきっと一文の銭を置いて行く。いくら物価の廉《やす》い時代でも、大きい握り飯ひとつの値が一文では引合わないわけであるが、平助の方では盲人に対する一種の施しと心得て、毎日こころよくその握り飯をこしらえてやるばかりでなく、湯も飲ませてやる、炉の火にもあたらせてやる。こうした親切が彼の胸にも
前へ
次へ
全256ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング