――侍らしい苗字であるが、そういう人はかつて通り合せないとみえて、どの人もみな答えずに行き過ぎてしまうのである。それでも座頭は毎日この渡し場にあらわれて、野村彦右衛門をたずねている。それが前にもいう通り、幾年という長い月日のあいだ一日もかかさないのであるから、誰でもその根気のよいのに驚かされずにはいられなかった。
「座頭さんは何でその人をたずねるのだ。」
 こうした質問も船頭どもからしばしばくり返されたが、彼はただいつもの通り、笑っているばかりで、決してその口を開こうとはしなかった。彼は元来無口の男らしく、毎日この渡し場に立ち暮らしていながら、顔は見えずとも声だけはもう聞き慣れているはずの船頭どもに対しても、かつて馴れなれしい詞《ことば》を出したことはなかった。こちらから何か話しかけても、彼は黙って笑うかうなずくかで、なるべく他人《ひと》との応答を避けているようにもみえるので、船頭どもも後には馴れてしまって、彼に向って声をかける者もない。彼も結局それを仕合せとしているらしく、毎日ただひとりで寂しくたたずんでいるのであった。
 いったい彼はどこに住んで、どういう生活をしているのかそれも判
前へ 次へ
全256ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング