ていた。迂濶にこの笛を差出すと、殿の御所望という口実で、お部屋さまの方へ取上げられてしまうおそれがある。さりとて仮りにも殿の上意とあるものを、家来の身として断るわけにはいかない。弥次右衛門もこれには当惑したが、どう考えてもその笛を手放すのが惜しかった。
 こうなると、ほかに仕様はない。年の若い彼はその笛をかかえて屋敷を出奔した。一管の笛に対する執着のために、彼は先祖伝来の家禄を捨てたのである。
 むかしと違って、そのころの諸大名はいずれも内証が逼迫《ひっぱく》しているので、新規召抱えなどということはめったにない。弥次右衛門はその笛をかかえて浪人するよりほかはなかった。彼は九州へ渡り、中国をさまよい、京大坂をながれ渡って、わが身の生計《たつき》を求めるうちに、病気にかかるやら、盗難に逢うやら、それからそれへと不運が引きつづいて、石見弥次右衛門という一廉《ひとかど》の侍がとうとう乞食の群れに落ち果ててしまったのである。
 そのあいだに彼は大小までも手放したが、その笛だけは手放そうとはしなかった。そうして、今やこの北国にさまよって来て、今夜の月に吹き楽しむその音色を、測《はか》らずも矢柄喜兵
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