った。かれは与市の母や兄を主人とも敬い、親兄弟とも慕って、おとなしくつつましやかに暮らしていた。
慶長十九年、お冬が十八の春には、その大恩人たる大滝庄兵衛の主人の家に、暗い雲が掩いかかって来た。かの大久保相模守忠隣が幕府の命令によって突然に小田原領五万石を召上げられ、あわせて小田原城を破却されたのである。
その子細は知らず、なにしろ青天の霹靂《へきれき》ともいうべきこの出来事に対して、関東一円は動揺したが、とりわけて大久保と縁を組んでいる里見の家では、やみ夜に燈火《ともしび》をうしなったように周章《しゅうしょう》狼狽した。あるいは大久保とおなじ処分をうけて、領地召上げ、お家滅亡、そんなことになるかも知れないという噂がそれからそれと伝えられて、不安の空気が城内にもみなぎった。
庄兵衛もその不安を感じた一人であるらしく、このごろは洲先《すのさき》神社に参詣することになった。洲先は頼朝が石橋山の軍《いくさ》に負けて、安房へ落ちて来たときに初めて上陸したところで、おなじ源氏の流れを汲む里見の家では日ごろ尊崇《そんすう》している神社であるから、庄兵衛がそれに参詣して主家の安泰を祈るのは無理
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