滅亡の禍いをまねいたのであると伝えられている。
大久保相模守|忠隣《ただちか》は相州小田原の城主で、徳川家の譜代大名のうちでも羽振りのよい一人であったが、一朝にしてその家は取潰されてしまった。その原因は明らかでない。かの大久保|石見守《いわみのかみ》長安の罪に連坐したのであるともいい、または大坂方に内通の疑いがあったためであるともいい、あるいは本多佐渡守|父子《おやこ》の讒言によるともいう。いずれにしても里見忠義は相模守忠隣のむすめを妻にしていた関係上、舅《しゅうと》の家がほろびると間もなく、彼もその所領を召し上げられて、伯耆《ほうき》の国に流罪を申付けられ、房州の名家もその跡を絶ったのである。里見の家が連綿としていたら、八犬伝は世に出なかったに相違ない。馬琴はさらに他の題材を選ばなければならないことになったであろう。
馬琴の口真似をすると、閑話休題《あだしごとはさておき》、これからわたしが語ろうとするのは、その里見の家がほろびる前後のことである。忠義の先代義康は安房《あわ》の侍従と呼ばれた人で、慶長《けいちょう》八年十一月十六日、三十一歳で死んでいる。その三周忌のひと月かふた月前
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