のです。
「どうも飛んだことでござった。御主人はお出かけになりはしまいな。」
「はい、父は宅におります。」と、祖母は答えました。
 それでまず安心したというような顔をして、与茂四郎は祖母の案内で奥へ通されました。
「どうも飛んだことで……。」と、与茂四郎はかさねて言いました。「しかし、たといどんなことがあろうとも、御主人はお出かけになってはなりませぬぞ。」
「かしこまりました。」と、増右衛門は謹んで答えました。「家内に何かの禍いがあるというお諭《さと》しでござりましたが、まったくその通りで驚き入りました。」
「お店からはどなたがお出でになりましたな。」
「番頭の久右衛門に店の者五、六人を付けて出しました。」
「ほかには誰もまいりませぬな。」と、与茂四郎は念を押すようにまた訊きました。
「ほかには絵かきの文阿先生が……。」
「あ。」と、与茂四郎は小声で叫びました。「誰かを走らせて、あの人だけはすぐに呼び戻すがよろしい。」
「はい、はい。」
 おびえ切っている増右衛門はあわてて店へ飛んで出て、すぐに文阿先生を呼び戻して来い、早く連れて来いと言い付けているところへ、店の者のひとりが顔の色をか
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