主人は蟹が好きなので、逗留中に百蟹の図をかいてくれと頼んだところが、文阿は自分の未熟の腕前ではどうも百蟹はおぼつかない。せめて十蟹の図をかいてみましょうというので、このあいだからその座敷に閉じ籠って、いろいろの蟹を標本にして一心にかいているのでした。その九匹はもう出来あがって、残りの一匹をかいている最中にこの事件が出来《しゅったい》したので、文阿は絵筆をおいて起《た》ちました。
「先生もお出でになるのですか。」と、増右衛門は止めるように言いました。
「はあ。どうも気になりますから。」
そう言い捨てて、文阿は大勢と一緒に出て行ってしまいました。しいて止めるにも及ばないので、そのまま出してやりますと、それを聞き伝えて近所からも、また大勢の人がどやどやと付いてゆく。漁師町からも加勢の者が出てゆく。どうも大変な騒ぎになりましたが、主人はまさかに出てゆくわけにもまいりません。家にいてただ心配しているばかりです。
祖母をはじめ、ほかの者はみな店先に出て、そのたよりを待ちわびていますと、そこへかの坂部与茂四郎という人が来ました。途中でその噂を聴いたとみえまして、半兵衛の一件をもう知っているらしい
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