ったが、それもまだ帰らない。その蟹の顔を見ないうちは迂濶《うかつ》にほかのお料理を運び出すことも出来ないので、まことに困っていると、お杉は顔をしかめて話しました。
「まったく困るねえ。」と、祖母もいよいよ眉をよせました。ほかにも相当の料理が幾品も揃っているのですから、いっそ蟹だけをはぶいたらどうかとも思ったのですが、なにしろ父の増右衛門が大好きの物ですから、迂濶にはぶいたら機嫌を悪くするに決まっているので、祖母もしばらく考えていますと、奥の座敷で手を鳴らす声がきこえました。
祖母は引っ返して奥へゆきますと、増右衛門は待ちかねたように廊下に出て来ました。
「おい、なにをしているのだ。早くお膳を出さないか。」
催促されたのを幸いに、祖母は蟹の一件をそっと訴えますと、増右衛門はちっとも取合いませんでした。
「なに、一匹や二匹の蟹が間に合わないということがあるものか。町になければ浜じゅうをさがしてみろ、今夜はうまい蟹を御馳走いたしますと、お客さまたちに吹聴《ふいちょう》してしまったのだ。蟹がなければ御馳走にはならないぞ。」
こう言われると、もう取付く島もないので、祖母もよんどころなしに台
前へ
次へ
全256ページ中157ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング