の夕方である。僕はその当時、日露戦争の従軍新聞記者として満洲の戦地にあって、この日は午後三時ごろに楊家店《ようかてん》という小さい村に行き着いた。前方は遼陽攻撃戦の最中で、首山堡《しゅざんぽう》の高地はまだ陥らない。鉄砲の音は絶え間なしにひびいている。
僕たちは毎晩つづいて野宿同様の苦をしのいで来たので、今夜は人家をたずねて休息することにして、二、三人あるいは四、五人ずつ別れ別れになって今夜のやどりを探してあるいた。楊家店は文字通りに柳の多い村である。その柳のあいだをくぐり抜けて、僕たち四人の一組は石の古井戸を前にした、相当に大きい家をみつけた。
井戸のほとりには十八九ぐらいの若い男がバケツに綱を付けたのを繰りさげて、荷《にな》い桶に水を汲みこんでいる。おまえはこの家の者かと、僕たちはおぼつかない支那語できくと、彼は恐れるように頭《かぶり》をふった。ここの家《うち》の姓はなんというかと重ねて訊くと、彼はそこらに落ちている木の枝を拾って、土の上に徐という字を書いてみせた。そうして、日本の大人《たいじん》らはそこへ何の用事でゆくのかと訊《き》きかえした。
今夜はここの家に泊めてもらう
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