、何者が住んでいたのかということを詮索する方針を取ったのである。
 それもまた容易に判らなかったのであるが、古い記録や故老の口碑をたずねて、南北朝の初め頃まではここに越智《おち》七郎左衛門という武士が住んでいたことを初めて発見した。七郎左衛門は源平時代からここに屋敷を構えていて、相当に有力の武士であったらしいのであるが、南北朝時代に菊池のために亡ぼされて、その子孫はどこへか立去ったということが判ったので、さらにその子孫のゆくえを詮議することになったが、何分にも遠い昔のことであるから、それも容易には判らない。いろいろに手を尽して詮索した末に、越智の家の子孫は博多へ流れて行って、今では巴屋という漆屋《うるしや》になっていることを突きとめた。口で言うと、単にこれだけの手つづきであるが、これだけのことを確かめるまでに殆んど一年間を費《ついや》したのであった。
 それから博多の巴屋について、越智の家に関する古い記録を詮議すると、巴屋にも別に記録のようなものは何にも残っていなかった。しかし遠い先祖のことについて、こういう一種の伝説があるといって、当代の主人が話してくれた。
 それが何代目であるか判
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