来ますから、あなたは一足先へ行って下さい。病院は工場の近所ですから、工場へ行って訊けば直ぐに判ります。さあ、早く……。早く行ってください。
(高田は急いで引立つれば、李は失神したようにふらふらと立上る。)
高田 阿母さんはどこにいるんです。
(李は答えず、唯ぼんやりしている。)
高田 (じれて。)じゃあ、僕が探して来る。あなたは早く行って下さいよ。好いですか。(云い捨てて下のかたへ走り去る。)
(李はつづいて歩み出す気力もないように、再びぐったり[#「ぐったり」に傍点]と榻に腰をおろし、卓の上に俯伏《うつぶ》している。下の方より村の若者がバケツ二個を天びん棒に荷《にな》いて出で、何か歌いながら井戸の水を汲みて去る。それと入れちがいに、下のかたより柳は鎌を持ちて走り出で、すぐに内へ駈け込む。)
柳 (息をはずませて。)もし、お前さん。阿香が大変な怪我をしたそうで……。どうしたら好いだろう。お前さんも高田さんから話を聞いたろうね。
(李はやはり俯伏している。柳はその腕をつかんで、無理にひき起す。)
柳 お前さん、しっかりおしなさいよ。阿香はどうも助かりそうも無いと云うじゃあないか。中二のところへも知らせたと云うから、中二は直ぐに駈け付けたろうけれど、わたし達もこうしちゃいられない。お前さん、早く行って様子を見て来てくださいよ。
李中行 (力なげに。)行ってみたければ、お前ひとりで行くが好い。おれは忌《いや》だ。
柳 わたしは女だから困るじゃないか。お前さん早くおいでなさいよ。
李中行 (頭をふる。)忌だ、忌だ。
柳 なぜ忌だというのさ。娘が死にかかっているんじゃないか。
李中行 (嘆息して。)それだから忌だというのだ。可愛い娘が機械にまき込まれて、死にかかった蟋蟀《きりぎりす》のように、手も足も折れてしまった。……。そんな酷《むご》たらしい姿を見せ付けられて堪るものか。その話を聞いただけでも、おれはもう魂が抜けたようになっているのだ。
柳 (おなじく嘆息する。)そう云えば、わたしもそうだが、それでも息のあるうちに、一度逢って遣りたいような気もするからね。当人だって何か云って置きたいことがあるかも知れない。
李中行 遺言があるならば、中二が聞いて来るだろう。なにしろおれは御免だ。(また俯伏す。)
柳 困るねえ。だって、まだ死ぬか生きるか確に決まったわけでも無いじゃあないか。(李の肩に手をかけて揺る。)お前さん。後生だから行ってみて下さいよ。
(李は答えず。)
柳 仕様がないねえ。じゃあ、いっそ思い切ってわたしが行こうかしら。こんな装《なり》をして行っちゃあ、娘の外聞にもかかわるかも知れない。けれど、この場合にそんなことを云っちゃあいられない。
(柳は鎌を片付けて、身支度をする。下のかたより會徳出づ。)
會徳 (窓から声をかける。)なんだか娘が怪我をしたと云うではないか。
柳 (泣き声で。)高田さんの話では、もう助かりそうも無いと云うんですよ。
會徳 それは飛んだことだな。なにしろ早く行ってみたら好かろう。
柳 そう云うんだけれど、この人がぐずぐず[#「ぐずぐず」に傍点]していて、行って呉れないんですよ。
會徳 それではお前が行くがいい。ひとりで困るなら、おれが一緒に行って遣ろうか。
柳 じゃあ、済まないが、そうして下さい。
會徳 よし、よし。
(柳は身支度して表へ出で、會と共に下のかたへ行こうとする時、下の方より李中二走り出づ。)
中二 おお、阿母《おっか》さん。
柳 これから病院へ行こうと思っているんだが、阿香はどんな様子だね。
中二 妹はもういけない。
柳 いけない……。
會徳 もう死んだのか。
中二 病院へ送られると直ぐに息を引取ってわたしでさえ間に合わない位でした。(顔をしかめて嘆息する。)なにしろ機械にまき込まれて、手も足もばらばら[#「ばらばら」に傍点]になって仕舞ったんだから、どうにも手当の仕様が無かったそうです。
會徳 工場では時々にそんなことがあると聞いていたが、全く怖ろしいことだな。
中二 そこで、阿母さん。死骸は今ここへ運んで来るから、病院までわざわざ出て行くには及びません。まあ、内へ這入《はい》って待っておいでなさい。(云いかけて下のかたを見る。)ああ、もう来た、もう来た。
(下のかたより高田圭吉出づ。)
高田 (柳に。)どうも残念なことでした。僕が途中まで引返すと、もう死骸を送って来るのに逢って仕舞ったんです。所詮むずかしかろうとは思っていたんですが、こんなに早かろうとは思いませんでした。
柳 (泣き出す。)まったく夢のようで……。こんなことになると知ったら、工場なんぞへ遣るんじゃあなかったが……。
中二 (なだめるように。)まあ、内へ……内へ……。
(中二は母を扶《たす》けて内へ連れ込もうとする時、下のかたより工場の事務員浦辺、三十五六歳、洋服を着て先に立ち、若き事務員村上は花環を持ち、あとより支那の苦力《クーリー》二人が担架をかき、担架には阿香の死骸を横えて白い毛布をかけてある。又そのあとより同じ工場の女工時子、君子が草花を持ちて出づ。)
高田 (会釈して。)皆さん、御苦労でした。
中二 狭い所ですが、どうぞこちらへ……。
(中二は母を連れて内に入る。一同もつづいて内に入れば、中二と高田が指図して、會徳も手伝い、阿香の死骸を上のかたの寝室へ運び込む。浦辺は苦力に向って、もう帰ってもよいと知らすれば、二人は担架を舁《か》きて去る。村上は花環をささげ、時子と君子も花をささげる心にて、連れ立ちて寝室に入れば、中二と會徳は室内に残り、高田は出る。)
浦辺 (高田に。)ここにいるのがお父さんですね。
高田 (李をみかえって。)そうです、そうです。(柳を指さして。)これが阿母さんです。
浦辺 (夫婦に。)委細は息子さんに話して置きましたが、まことに飛んだ災難で、なんとも申上げようがありません。
(李と柳とは無言で頭を下げる。)
浦辺 勿論、工場の方にも規定があって、相当の弔慰金を差上げる筈になって居りますから、いずれ改めておとどけ致します。
李中行 (低い声で。)はい、はい。
(村上、時子、君子は寝室より出づ。)
浦辺 よく拝んで来ましたか。
時子 (眼を湿《うる》ませながら。)はい、お花を供えて拝んでまいりました。
君子 お午過ぎまで一緒に仕事をしていた阿香さんが、俄にこんなことになろうとは……。
(二人は袖を眼にあてて啜《すす》り泣きをする。)
村上 調べ革のあぶないと云うことは、阿香さんもよく知っている筈だがなあ。
高田 何かの用があって機械場へ行く場合には、よく気をつけるように云い渡されているんだが……。どうして調べ革のそばへ近寄ったのかなあ。
浦辺 その場にいた者の話によると、阿香さんもそんなに危ない所を通ったと云うわけでもないのだが、なんだか物にでも引かれたように、自分の方からふらふら[#「ふらふら」に傍点][#「ふらふら[#「ふらふら」に傍点]」は底本では「ふらふ[#「ふらふ」に傍点]ら」]と機械のそばへ寄って行ったように見えたと云うことだが……。
高田 (打消すように。)いや、そんなことは無い。阿香さんの死んだのは確に過失ですよ。自分の方から機械のそばへ寄ったなんて、そんな馬鹿なことがあるものか。(激して。)阿香さんが……何で自殺なんぞするものか。
浦辺 (しずかに。)君、誤解しちゃあいけないよ。工場の方では、過失であるとか無いとか云うことを問題にして、弔慰金の額を多くするとか少くするとか云うわけじゃあない。いずれにしても規定の弔慰金はかならず支出するのだが、唯その場にいた者がそんな話をしていたから、僕はその取次ぎをしたに過ぎないのだ。
李中行 娘の方から機械のそばへ寄って行ったのでしょうか。
浦辺 さあ、今もいう通り、私も人の噂を聞いただけで、自分が実地を見ていたわけではないのだから、確なことは云えませんよ。
李中行 ねえ、高田さん。ほんとうでしょうか。
高田 一つ工場に勤めていても、僕はそのとき機械場の方へ行っていなかったので、そんなことは嘘だか本当だか知りませんよ。併し阿香さんが自分から機械にまき込まれる筈がありませんからね。
柳 そうですとも……。なんで娘がそんなことをするもんですか。積ってみても知れたことですよ。
村上 (浦辺に。)じゃあ、もう行きましょうか。
浦辺 むむ。わたしももう一度拝んで行こう。
(浦辺は寝室に入る。)
時子 (高田に。)ここの家のお墓はどこにあるんでしょう。
高田 僕も今まで知らなかったが、中二君の話ではここから、三四町ほど距《はな》れた所にあるそうだ。
君子 それじゃあ時々に御参詣に来られますわね。
柳 (泣きながら。)どうぞお墓参りに行って遣ってください。あれも嘸《さ》ぞ喜びましょうから。
(柳も時子も君子も眼をふいている。一室より浦辺出づ。あとより中二と會徳も出づ。)
浦辺 では、皆さん。いずれ又伺います。
中二 色々ありがとうございました。
(浦辺は先に立ち、村上、時子、君子、皆それぞれに会釈して表へ出で、下のかたへ立去る。)
會徳 みんなも力落しであろうけれど、もう斯《こ》うなったら仕方がない。早く近所の人たちを呼んで来て、葬式の支度に取りかかることにしようではないか。
中二 何分よろしく願います。
會徳 では、すぐに行って来よう。
(會徳は早々に下のかたへ立去る。)
中二 さあ、お父さん阿母さんも奥へ行って、妹を拝んでお遣りなさい。
(李は黙っている。柳も無言で泣いている。)
高田 (嘆息する。)無理もないなあ。阿香さんは死んでしまった。ああ、僕もなんだか世の中が暗やみになったようだ。
(高田はふらふらと寝室に入る。中二は同情するように見送る。そのうちに柳は声を立てて泣き出すので、中二は進み寄ってその肩に手をかける。)
中二 阿母さん。もう泣いても仕様がありません。これも運命――これもよんどころない災難とあきらめて、妹の死んだ跡を弔って遣るより外はありませんよ。工場の方でも相当の金をくれるそうですから、それで立派な葬式をして遣りましょう。それがせめてもの追善《ついぜん》ですよ。
柳 (又泣く。)金をくれる……。金を幾ら呉れたところで、娘の命が買えるものか。(喰ってかかるように。)若い者のくせに、お前が意気地がないからだ。なぜ工場の奴等にもっと[#「もっと」に傍点]厳しく掛合って遣らないのだ。唯《た》った一人の妹を殺されて、黙っている奴があるものか。
中二 でも、粗相で死んだのですからね。誰が悪いと云うわけでもない。今もいう通り、これも拠《よんどこ》ろない災難と諦めるの外はありませんよ。ねえ、お父さんも諦めてください。
李中行 まったく諦めるより外はないが……。これ、中二、おれはどうも気にかかってならない事がある。娘は自分の方から機械のそばへ寄って行って、調べ革とかいうものに捲き込まれたのだろうか。
中二 そんなことを云う者もありますが……。どうも確なことは判りませんよ。(考えて。)まあ、嘘でしょうね。
李中行 (疑うように。)嘘だろうか。
柳 嘘だ、嘘だ。わたしはさっきから嘘だと云っているじゃあないか。おまえさんも判らない人だね。(上のかたを見て。)高田さんと云う人もあるのに、娘がなんで自分で死ぬものかよ。
中二 (うなずく。)どう考えても粗相ですよ。
李中行 そこで、工場の方では幾らぐらいの金を呉れるのだろうな。
中二 工場の方にも色々の規定があるのだそうで、妹には三千二百円くれると云うことです。
李中行 三千二百円……。こっちの両《テール》に直すと、幾らほどになるのだな。
中二 この頃は上海の銀相場が廉いから、こっちの一両は日本の八十銭……。三千二百円は丁度こっちの四千|両《テール》に相当しますね。
李中行 (愕然として叫ぶ。)四千両……。四千両……。(中二の胸をつかむ。)これ、ほんとうに四千両か。
中二 そうです、そうです。
李中行 四千両……。ああ、怖ろしいことだ。
(李は掴みし手を放して、よろよろと倒れかかるを、中二は抱える
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