でしょう。あなたのお店もなかなか繁昌するそうですね。
中二 ひどく繁昌という程でもありませんが、不景気の時節としては、まあ、まあ、好い方でしょう。なにしろ書物をよむ人が殖えましたからね。
(中二は高田に杯をさせば、阿香が酌をする。)
高田 あなたのお店は日本人の経営とはいいながら、日本の書物のほかに、支那の書物も売るんだから、どうしても繁昌するわけですよ。
中二 支那の書物も、このごろは上海版の廉《やす》いものが続々発行されるので、自然買い手も多いんです。
高田 上海版といえば、捜神記の廉いのは来ていませんかね。活版本でも好いんですが……。
中二 調べてみましょう。たしか来ている筈です。あなたは捜神記のような本をお読みになるんですか。
高田 わたしも此頃は支那の怪談に興味を持つようになって、覚束ないながらも拾い読みをしているんですよ。日本に有り来りの怪談は、大てい支那から輸入されているんですからね。
中二 わたしは日本の怪談を知りませんが、支那から渡ったものが多いんですか。
高田 日本国有の怪談は少い。大抵はこっちが本家本元ですよ。
(このあいだに、李は卓にうつ伏して、うとうとと眠り始める。月の光、だんだんに薄暗くなる。)
阿香 あら、お父さん。もう居眠りを始めたの。
柳 一杯飲むと、いつでもこれだよ。
阿香 でも、あんまり早いわ。(傍へ寄りて肩をたたく。)お父さん……。折角高田さんを呼んで来たんじゃありませんか。お起きなさい。
李中行 (眼をあく。)折角呼んで来ても、若い者が寄り集まると、おれをそっち退けにして、何か判らない話を始めるから、直ぐに眠くなってしまうのだ。
中二 判らない話じゃあない。内のお父さんは実に好い人だと云って、二人が感心しているんですよ。
高田 そうです、そうです。
李中行 おまえさんまでが人を馬鹿にするか。わたしは他愛なく眠っているようでも、この二つの耳は兎のように働いているのだ。はははははは。さあ、ついでくれ。
(李は娘に酌をさせて又飲む。月の光、いよいよ暗くなる。)
柳 (窓から覗く。)おや、いつの間にか月が暗くなって来たようだ。
阿香 (おなじく覗く。)まあ、御覧なさいよ。あんな黒い雲が……。ほんとうに妙な形で、まるで蝦蟆のようですわ。
柳 成程ねえ……。あの雲は不思議な形をしている……。
李中行 なに、蝦蟆のような雲が出た……。(立ってゆく。)
阿香 あれ、あの雲が……。月を半分隠して仕舞ったんですよ。
李中行 (窓から覗く。)成程、あんな雲はめずらしいな。(中二に。)おい、来てみろよ。大きい蝦蟆のような雲が出た。
中二 お父さんは蝦蟆が好きだな。(云いながら立ちかけて物につまずく。)おや、なんだろう。
(中二は俯向《うつむ》いて我が足もとを透し視ようとする時、三足の青蛙が卓の上にひらり[#「ひらり」に傍点]と飛びあがる。)
高田 (思わず立つ。)や、蝦蟆だ。蝦蟆だ。
中二 三本足の蝦蟆だ……。
李中行 何、そっちにも蝦蟆がいるのか。
(李は立寄る。柳と阿香も見かえる。ランプはおのずから消えて、家内は暗くなる。その暗中に、青蛙の全身より鬼火の如き青き光を放つ。人々はおどろき怪みて凝視するうちに、消えたと思いしランプは再び明るく、青蛙の姿はいつか消える。表の月も再び明るくなる。)
中二 (高田と共に笑い出す。)なんだ。なんにもいないじゃあないか。
高田 居ない、居ない。はは、まったく眼のせいだ。これが幻覚とか錯覚とか云うんだろうな。
柳 でも、わたしの眼には蝦蟆の姿がはっきり[#「はっきり」に傍点]と見えましたよ。
阿香 わたしにも見えましたわ。鬼火のように青く光って、その卓の上に……。
李中行 むむ、おれにも見えた。しかも三本足で、確にさっきの青蛙神だ。
中二 お父さんの迷信にも困ったものだな。あんまり蝦蟆の噂ばかりするもんだから、皆んなの眼にそんな幻影が見えたんですよ。
高田 たしかに我々の幻覚ですよ。ははははははは。
中二 はははははは。
李中行 はてな。
(李はまだ疑うように考えている。柳と阿香は顔をみあわせて半信半疑の体《てい》。高田と中二は事もなげに笑いながら、再び榻にかける。風の音。寝鳥のおどろき起つ声。)
[#地から1字上げ]――幕――
[#改ページ]

 第二幕の登場人物
李中行
その妻 柳
その忰 中二
その娘 阿香
高田圭吉
村の男 會徳
工場の事務員 浦辺、村上
女工 時子、君子
ほかに村の男、女若者。苦力など
[#改ページ]

          第二幕

 おなじく李中行の家。
 第一幕より五日の後、晴れたる日の午後三時頃。
(妻の柳は長柄の鎌を持ち、李中行は長煙管を持ち、たがいに云い募って詰めよるを、近所の農家の亭主會徳が支えている。砧《きぬた》の音せわしく聞《きこ》ゆ。)
會徳 これ、これ、どうしたものだ。好い年をして夫婦喧嘩は外聞が悪いではないか。まあ、まあ、静かにするが好い。
柳 だって、お前さん。まあ、聴いてください。この頃は高梁《コーリャン》の刈入れ時で、どこの家でも眼が廻るほど忙がしいのに、この人は朝から煙草ばかりぱくぱく喫《の》んで、寝そべって……。
李中行 なんでおれが寝ているものか。夜明けからちゃん[#「ちゃん」に傍点]と起きているのだ。
柳 起きているか、死んでいるか、判るものか。秋の日は短いというのに、なぜ朝からぶらぶら[#「ぶらぶら」に傍点]遊んでいるんだよ。
李中行 遊んでいるのではない。こうして黙って坐っていても、おれには又おれの料簡がある。燕雀いずくんぞ大鵬のこころざしを知らんと、昔の陳勝呉廣《ちんしょうごこう》も云っているのだ。
柳 なんの、聴き取り学問で利口ぶったことを云うな。百姓が畑へも出ないで、毎日のらくら[#「のらくら」に傍点]していてそれで済むと思うのかよ。早く刈込んで来なければ、たべ物ばかりか、焚き物にも困るじゃないか。ほんに、ほんにお前のような人は豚にも劣っているのだ。
李中行 なにが豚だ。
會徳 まあ、両方がそう云い募っていては、果てしが無い。そこで、おれはどっちの贔屓《ひいき》をするでもないが、きょうの喧嘩はどうも親父の方が好くないようだぞ。おふくろの云う通り、今は高梁の刈入れ時で、人間の手足が八本も欲しいという時節に、朝から喞《くわ》え煙管で一日ぶらぶら[#「ぶらぶら」に傍点]しているのは、あんまり悠長過ぎるではないか。お前はそんな怠け者ではなかった筈だが……。
李中行 (笑う。)はは、おまえまでが女房の味方をするのか。いや、それも無理のないことだ。成程、おれは悠長過ぎるかも知れない、怠け者かも知れない。まあ、なんとでも云うが好い。何事も自然に判ることだ。はははははは。人間はなんでも好い友達を持たなければいけない。お前もおれという好い友達を持ったお蔭で、又どんな仕合せなことが無いとも云えないから、それを楽しみに待っているが好い。はははははは。
會徳 (柳と顔を見あわせる。)どうも少し変だな。気がおかしくなったのではないか。
柳 少しどころか、大変におかしいんですよ。
會徳 まったく気がおかしいようだ。困ったものだ。な。兎もかくも息子のところへ知らせて遣ったらどうだな。
柳 娘が工場へ行きがけに、中二の店へ寄って来る筈になっているから、今夜か明日《あした》の晩には来るでしょうよ。
會徳 むむ。息子が来たらば好く相談をするがよかろう。(李を横目に見て。)どうも不断とは様子が違っているようだから、まあ逆らわずに捨てて置く方が無事らしい。お前もその積りで……。(喧嘩をするなと眼で知らせる。)
柳 (渋々ながら首肯《うなず》く。)まったくこんな人を相手にしているのは暇潰しだ。まあ、仕方がないから、私ひとりで仕事に出ましょうよ。
會徳 それが好い、それが好い。では、おれも行くとしようか。
李中行 もう帰るのか。そんなに齷齪《あくせく》働かなくっても好いではないか。
會徳 どうして、どうして、今もいう通り、手足が八本もほしい時節だ。
(會徳は下のかたへ立去る。)
柳 誰だってそうだ。齷齪しなければ生きていられない世の中ということを知らないのは、お前さんぐらいのものだ。(鎌を持ちて行きかけて立戻る。)おまえさんは何かに祟られているんだよ。
李中行 祟られている……。
柳 屹《きっ》と何かに祟られているんだよ。十五夜の晩に、おかしい旅の奴が来て、青蛙神だとか云って三本足の青い蝦蟆を見せると、わたしが止めるのも肯《き》かないで、おまえさんは何か祈ったろう。障らぬ神に祟り無しと云うのはその事だ。神様だが魔物だか判らないようなものに、うっかり祈ったり、願掛けをしたりすると、飛んでもない祟りや災難を受けることがあるものだ。お前さんは屹とあの蝦蟆に祟られたんだよ。それで無くって、今まで真面目に働いていた人間が、急に生まれ変ったような怠け者になる筈が無いからね。
李中行 祟られるなら祟られても好い。幾度云っても同じことで、おれの料簡はおまえ達には判らないのだ。まあ、打っちゃって置いてくれ。
(李は笑いながら悠々と長煙管の煙草をのんでいる。)
柳 (舌打ちして。)ええ、どうとも勝手にするが好い。気違いじじいめ。
(柳はそのまま表へ出で、足早に下のかたへ立去る。李はそのうしろ姿を見て、大きく笑い出す。)
李中行 なにが気ちがいだ。どいつも今にびっくりするな。あはははははは。(立って土間をあるき廻る。)中二の奴めも利口ぶって、何かおれに意見するだろう。あははははは。あいつ等はみんな青蛙神の奇特を知らないのだ。青蛙神に祈れば、自然に福を授けられると云うことを知らないのだ。あははははは。いや、あんまり笑ったので喉が渇いて来た。あははははは。
(李は頻りに笑いながら、竃《かまど》のそばへ行き、棚から大きい茶碗を把ってバケツの水を掬って飲む。やがて飲み終りて何ごころなく見かえり俄《にわか》におどろく。)
李中行 や、蝦蟆が出た……。おお、三本足だ……。確にこのあいだの青蛙神だ。はて、どこから来たのだろう。それとも矢っぱりおれの家に残《のこ》っていたのかな。そうだ、そうだ。いつまでもここの家を立去らないで、おれを守ってくれるに相違ないのだ。いや、有難いことだ。(土間にひざまずいて拝し、再び顔をあげる。)や、いつの間にか姿が見えなくなったぞ。なに、見えても見えなくても構わない。ここの家のどこかにいて呉れれば、それで好いのだ。はははははは。
(李は榻《とう》に腰をおろして、再び煙草を喫んでいる。砧の音。やがて下のかたより高田圭吉、仕事着のままにて走り出で、窓より内を覗く。)
高田 おお、お父さんは内にいるのか。もし、もし……。
李中行 (みかえる。)やあ、高田さんか。
高田 (高田は正面の扉をあけて、忙がわしく入り来る。)どうも大変なことが出来《しゅったい》しましてね。
李中行 大変なこと……。何が出来したのですな。
高田 阿香さんが……。
李中行 娘が……。
高田 機械場の調べ革に巻き込まれて……。
李中行 (おどろいて立つ。)それでどうしました。
高田 みんなも驚いて機械を止めたんですが、もう間に合わないで……。
李中行 (すり寄る。)もう間に合わないで……。娘は怪我をしましたか。
高田 怪我ぐらいなら好いが……。兎もかくも直ぐに近所の病院へ送ったんですが……。なにしろ手も足も折れて仕舞ったらしいので……。
李中行 (進みよる。)そ、それでも……。娘は、たたすかりますか。
高田 (躊躇しながら。)どうもそれが……。病院の医者もむずかしいと云っているんですよ。
(李はおどろいて倒れかかるを、高田はあわてて支えながら、再び榻に腰をかけさせる。)
李中行 (唸るように。)娘は……阿香は……。ああ、死ぬのか。
高田 それで取りあえず知らせに来たんです。さあ、早く病院へ来てください。阿母さんはどこにいるんです。
(李は答えず、卓の上に顔を伏せている。)
高田 (あたりを見まわす。)え、阿母さんはどうしました。畑へ行っているんですか。僕は阿母さんを呼んで
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