。(李の肩に手をかけて揺る。)お前さん。後生だから行ってみて下さいよ。
(李は答えず。)
柳 仕様がないねえ。じゃあ、いっそ思い切ってわたしが行こうかしら。こんな装《なり》をして行っちゃあ、娘の外聞にもかかわるかも知れない。けれど、この場合にそんなことを云っちゃあいられない。
(柳は鎌を片付けて、身支度をする。下のかたより會徳出づ。)
會徳 (窓から声をかける。)なんだか娘が怪我をしたと云うではないか。
柳 (泣き声で。)高田さんの話では、もう助かりそうも無いと云うんですよ。
會徳 それは飛んだことだな。なにしろ早く行ってみたら好かろう。
柳 そう云うんだけれど、この人がぐずぐず[#「ぐずぐず」に傍点]していて、行って呉れないんですよ。
會徳 それではお前が行くがいい。ひとりで困るなら、おれが一緒に行って遣ろうか。
柳 じゃあ、済まないが、そうして下さい。
會徳 よし、よし。
(柳は身支度して表へ出で、會と共に下のかたへ行こうとする時、下の方より李中二走り出づ。)
中二 おお、阿母《おっか》さん。
柳 これから病院へ行こうと思っているんだが、阿香はどんな様子だね。
中二 妹はもういけない。
柳 いけない……。
會徳 もう死んだのか。
中二 病院へ送られると直ぐに息を引取ってわたしでさえ間に合わない位でした。(顔をしかめて嘆息する。)なにしろ機械にまき込まれて、手も足もばらばら[#「ばらばら」に傍点]になって仕舞ったんだから、どうにも手当の仕様が無かったそうです。
會徳 工場では時々にそんなことがあると聞いていたが、全く怖ろしいことだな。
中二 そこで、阿母さん。死骸は今ここへ運んで来るから、病院までわざわざ出て行くには及びません。まあ、内へ這入《はい》って待っておいでなさい。(云いかけて下のかたを見る。)ああ、もう来た、もう来た。
(下のかたより高田圭吉出づ。)
高田 (柳に。)どうも残念なことでした。僕が途中まで引返すと、もう死骸を送って来るのに逢って仕舞ったんです。所詮むずかしかろうとは思っていたんですが、こんなに早かろうとは思いませんでした。
柳 (泣き出す。)まったく夢のようで……。こんなことになると知ったら、工場なんぞへ遣るんじゃあなかったが……。
中二 (なだめるように。)まあ、内へ……内へ……。
(中二は母を扶《たす》けて内へ連れ込もうとする時、下のかたより工場の事務員浦辺、三十五六歳、洋服を着て先に立ち、若き事務員村上は花環を持ち、あとより支那の苦力《クーリー》二人が担架をかき、担架には阿香の死骸を横えて白い毛布をかけてある。又そのあとより同じ工場の女工時子、君子が草花を持ちて出づ。)
高田 (会釈して。)皆さん、御苦労でした。
中二 狭い所ですが、どうぞこちらへ……。
(中二は母を連れて内に入る。一同もつづいて内に入れば、中二と高田が指図して、會徳も手伝い、阿香の死骸を上のかたの寝室へ運び込む。浦辺は苦力に向って、もう帰ってもよいと知らすれば、二人は担架を舁《か》きて去る。村上は花環をささげ、時子と君子も花をささげる心にて、連れ立ちて寝室に入れば、中二と會徳は室内に残り、高田は出る。)
浦辺 (高田に。)ここにいるのがお父さんですね。
高田 (李をみかえって。)そうです、そうです。(柳を指さして。)これが阿母さんです。
浦辺 (夫婦に。)委細は息子さんに話して置きましたが、まことに飛んだ災難で、なんとも申上げようがありません。
(李と柳とは無言で頭を下げる。)
浦辺 勿論、工場の方にも規定があって、相当の弔慰金を差上げる筈になって居りますから、いずれ改めておとどけ致します。
李中行 (低い声で。)はい、はい。
(村上、時子、君子は寝室より出づ。)
浦辺 よく拝んで来ましたか。
時子 (眼を湿《うる》ませながら。)はい、お花を供えて拝んでまいりました。
君子 お午過ぎまで一緒に仕事をしていた阿香さんが、俄にこんなことになろうとは……。
(二人は袖を眼にあてて啜《すす》り泣きをする。)
村上 調べ革のあぶないと云うことは、阿香さんもよく知っている筈だがなあ。
高田 何かの用があって機械場へ行く場合には、よく気をつけるように云い渡されているんだが……。どうして調べ革のそばへ近寄ったのかなあ。
浦辺 その場にいた者の話によると、阿香さんもそんなに危ない所を通ったと云うわけでもないのだが、なんだか物にでも引かれたように、自分の方からふらふら[#「ふらふら」に傍点][#「ふらふら[#「ふらふら」に傍点]」は底本では「ふらふ[#「ふらふ」に傍点]ら」]と機械のそばへ寄って行ったように見えたと云うことだが……。
高田 (打消すように。)いや、そんなことは無い。阿香さんの死んだのは確に過失ですよ。自分の方から機械のそばへ寄った
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