青蛙神
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鋤《すき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三年|後《のち》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)びっくり[#「びっくり」に傍点]
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第一幕の登場人物
李中行
その妻 柳
その忰 中二
その娘 阿香
高田圭吉
旅の男
[#改ページ]
第一幕
時は現代。陰暦八月十五日のゆうぐれ。
満州、大連市外の村はずれにある李中行の家。すべて農家の作りにて、家内の大部分は土間。正面には出入りの扉ありて、下のかたの壁には簑笠などをかけ、その下には鋤《すき》またや鍬《くわ》などの農具を置いてあり。その傍らには大いなる土竃《どがま》ありて、棚には茶碗、小皿、鉢などの食器をのせ、竃のそばには焚物用の高梁《コーリャン》を束ねたるを積み、水を入れたるバケツなどもあり。よきところに木卓を置き、おなじく三四脚の木榻《もくとう》あり。下のかたには窓あり。上のかたは寝室のこころにて、ここにも出入りの扉あり。家の外には柳の大樹、その下に石の井戸あり。うしろは高梁の畑を隔てて、大連市街の灯が遠くみゆ。
(家の妻柳、四十余歳。高梁を折りくべて、竃の下に火を焚いている。家内は薄暗く、水の音遠くきこゆ。下のかたより家の娘阿香、十七八歳、印刷工場の女工のすがたにて、高田圭吉と連れ立ちて出づ。高田は二十四五歳、おなじく印刷職工の姿。)
高田 (窓から内を覗く。)阿母《おっか》さんは火を焚いているようだ。じゃあ、ここで別れるとしよう。
阿香 あら、内へ這入《はい》らないの。
高田 まあ、止そう。毎晩のように尋ねて行くと、お父《とっ》さんや阿母さんにうるさがられる。第一、僕も極まりが悪いからな。
阿香 かまわないわ。始終遊びに来るんじゃありませんか。お寄りなさいよ。
高田 始終遊びに来る家《うち》でも、この頃はなんだか極まりが悪くなった。まあ、帰るとしよう。
阿香 いいじゃありませんか。(袖をひく。)今夜は十五夜だから、一緒にお月様を拝みましょうよ。
高田 (躊躇して。)それにしても、まあ、ゆう飯を食ってから出直して来ることにしよう。
阿香 じゃあ、屹《きっ》とね。
高田 むむ。(空をみる。)今夜は好い月が出そうだ。
阿香 お月様にお供え物をして待っていますよ。
(高田はうなずいて、下のかたへ引返して去る。阿香はそれを見送りながら、正面へまわりて扉を叩く。)
柳 (みかえる。)誰だえ。お父さんかえ。
阿香 わたしですよ。
柳 戸は開いているよ。お這入り……。
阿香 (扉をあけて入る。)あら、暗いことね。まだ燈火《あかり》をつけないの。
柳 いつの間にか暗くなったね。
阿香 町の方じゃあ、もう疾《と》うに電燈がついているわ。
柳 町とここらとは違わあね。あかりをつけないでも、今にもうお月様がおあがりなさるよ。
阿香 それでもあんまり暗いわ。
(阿香は上のかたの一室に入る。柳は竃の下を焚きつけている。表はだんだんに薄明るくなる。下のかたよりこの家のあるじ李中行、五十歳前後、肉と菓子とを入れたる袋を両脇にかかえて出づ。)
李中行 そろそろお月様がおあがりなさると見えて、東の空が明るくなって来た。
柳 (窓から覗く。)お父さんかえ。
李中行 むむ。今帰ったよ。(正面の扉をあけて入る。)阿香はどうした。
柳 たった今、帰って来ましたよ。時に買い物は……。
李中行 (袋を卓の上に置く。)まあ、どうにか斯《こ》うにか買うだけの品は買い調《ととの》えて来たが、むかしと違って、一年増しに何でも値段が高くなるにはびっくり[#「びっくり」に傍点]するよ。月餅《げっぺい》一つだって、うっかり買われやあしない。
柳 まったく私達の若い時のことを考えると、なんでも相場が高くなって、世の中は暮らしにくくなるばかりだ。それでもこうして生きている以上は、不断はどんなに倹約しても、お正月とか十五夜とかいう時だけは、まあ世間並のことをしないと気が済まないからね。
李中行 そうだ、そうだ。おれもそう思うから、見す見す高い物をこうして買い込んで来たのだ。阿香が帰っているなら、あれに手伝わせて早くお供え物を飾り付けたら好かろう。もうお月さまはお出なさるのだ。
柳 (窓から表を覗く。)今夜はすっかり晴れているから、好いお月さまが拝めるだろう。
李中行 むむ。近年にない十五夜だ。
(阿香は着物を着かえ、小さいランプを手にして、一室より出づ。)
阿香 お父さん。お帰りなさい。
李中行 さあ、みんな買って来たから、早く供えてくれ。
阿香 十五夜のお供え物も高くなったそうですね。
李中行 今もそれを云っていたのだが、だんだん貧乏人泣かせの世の中になるばかりだ。
阿香 (笑
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