う。)おめでたいお月見の晩に、そんな泣き言を云うもんじゃないわ。じゃあ、阿母さん。
柳 あいよ。
(母と娘は上のかたの壁の前に種々の供物をして、月を祭る準備をする。李は疲れたように、榻《とう》に[#「榻《とう》に」は底本では「搨《とう》に」]腰をおろしている。)
阿香 お父さん。草臥《くたび》れたの。
李中行 むむ。何だかがっかり[#「がっかり」に傍点]してしまった。
柳 町へ買い物に行って来たぐらいで、そんなにがっかり[#「がっかり」に傍点]するようじゃあ困るね。
李中行 一つは気疲れがしたのだな。近所でありながら、滅多に町の方へ出ないものだから、たまに出て行くと自動車や自転車で危なくってならない。おれはどうしても昔の人間だよ。時に中二《ちゅうじ》はまだ来ないのかな。
阿香 兄さんは来るかしら。
李中行 来るも来ないもあるものか。十五夜には家《うち》へ帰って来て、おれたちと一緒に月を拝めと、あれほど云い聞かせて置いたのだから、屹と来るに相違ないよ。
柳 十五夜で、店の方が忙がしいのじゃないかね。
李中行 なに、あいつの勤めている店は本屋だ。おまけに主人は日本人だから、十五夜に係り合があるものか。あいつ、何をしているのかな。
柳 そう云っても奉公の身の上だから、自由に店をぬけ出して来ることは出来ないのかも知れない。
阿香 十五夜だから暇をくれなんて云っても、主人が承知するか何《ど》うだか判らないわ。
李中行 でも、去年は来たではないか。
阿香 去年は去年……。今年はどうだか……。ねえ、阿母さん。
柳 中二も主人の気に入って、今年からは月給が五円あがったというから、それだけに仕事の方も忙がしくなったかも知れないからね。
李中行 月給のあがったのは結構だが、それがために十五夜に帰って来られないようでは困るな。
阿香 あら、お父さん。十五夜よりも月給のあがった方が好いわ。
李中行 おまえも今の娘だな。(舌打ちして。)まあ、仕様がない。毎年親子四人が欠かさずに月を拝んでいるのに、今年だけはあいつが欠けるのか。
柳 そう思うと、わたしも何だか寂しいような気もするが、いつまで待ってもいられまい。
阿香 今に高田さんが来ますよ。
柳 お前、約束をしたのかえ。
阿香 きっと来ると云っていましたわ。
李中行 高田さんが来たところで、あの人は他人だ。せがれの代りになるものか。こうと知ったら、町へ出た時にあいつの店へ寄って、もう一度よく念を押してくれば好かったな。
阿香 (それには構わず。)高田さんは何をしているんだろう。
(阿香は表へ出で、柳の下に立って下のかたをみる。表はいよいよ明るくなる。)
柳 (窓から声をかける。)もうお月様はおあがりになるかえ。
阿香 (空をみる。)ええ、もういつの間にかお上りになりましたよ。
柳 じゃあ、もう拝みに出なけりゃあならない。さあ、お父さん。
李中行 中二はまだ帰らないのかなあ。
阿香 高田さんはどうしたんだろうねえ。
(李は妻に促されて、渋々ながら立ち上り、打ち連れて表へ出る。月の光いよいよ明るく、虫の声。)
柳 おお、好いお月さまが出た。十五夜にこんなに晴れたのは、近年にめずらしい。さあ、拝みましょうよ。
(李と、柳、阿香の三人は形をあらため、下のかたの空を仰いで拝す。)
柳 まあ、まあ、これで好い。ことしの月も無事に拝んだ。
李中行 日が暮れたら急に冷えて来た。秋風はやっぱり身にしみるな。
(李と柳は引返して内に入る。阿香はまだ立って下のかたを眺めている。)
柳 お月さまを拝んでしまったら、今夜の御祝儀に一杯お飲みなさいよ。
李中行 今夜はせがれを相手に飲む積りだったが、あいつめ、まだ形をみせない。こうなったら仕様がないから、せめて高田さんでも来ればいいな。(外へ声をかける。)おい、高田さんは屹《きっ》と来ると云ったのか。
阿香 ええ、ええ、屹と来る筈なんだけれど……。あの人は何をしているんだろう。わたし行って呼んで来るわ。
柳 まあ、いいよ。若い女が夜あるきをするにゃあ及ばない。そのうちに来るだろうよ。
阿香 でも、ちょいと行って来るわ。お父さん。まあそれまではお酒を飲まずに、待っていて下さいよ。(早々に下のかたへ去る。)
柳 とうとう出て行ってしまった。あの子は高田さんばかり恋しがっているんだよ。
李中行 (笑う。)まあ、仕方がない。打っちゃって置け。おれはこの通りの貧乏だから、若い娘を印刷工場へ通わせて置くが、いつまでそうしても置かれない。遅かれ早かれ他《よそ》へ縁付けなければならないのだ。(又笑う。)高田さんは善い人だよ。
柳 そりゃ私も知っているけれど……。じゃあ、いよいよと云うときには、お前さんも承知してくれるのね。
李中行 むむ、承知するよ。日本人でも何でも構うものか。相手が正直で、よく働
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