ははははは。いや、あんまり笑ったので喉が渇いて来た。あははははは。
(李は頻りに笑いながら、竃《かまど》のそばへ行き、棚から大きい茶碗を把ってバケツの水を掬って飲む。やがて飲み終りて何ごころなく見かえり俄《にわか》におどろく。)
李中行 や、蝦蟆が出た……。おお、三本足だ……。確にこのあいだの青蛙神だ。はて、どこから来たのだろう。それとも矢っぱりおれの家に残《のこ》っていたのかな。そうだ、そうだ。いつまでもここの家を立去らないで、おれを守ってくれるに相違ないのだ。いや、有難いことだ。(土間にひざまずいて拝し、再び顔をあげる。)や、いつの間にか姿が見えなくなったぞ。なに、見えても見えなくても構わない。ここの家のどこかにいて呉れれば、それで好いのだ。はははははは。
(李は榻《とう》に腰をおろして、再び煙草を喫んでいる。砧の音。やがて下のかたより高田圭吉、仕事着のままにて走り出で、窓より内を覗く。)
高田 おお、お父さんは内にいるのか。もし、もし……。
李中行 (みかえる。)やあ、高田さんか。
高田 (高田は正面の扉をあけて、忙がわしく入り来る。)どうも大変なことが出来《しゅったい》しましてね。
李中行 大変なこと……。何が出来したのですな。
高田 阿香さんが……。
李中行 娘が……。
高田 機械場の調べ革に巻き込まれて……。
李中行 (おどろいて立つ。)それでどうしました。
高田 みんなも驚いて機械を止めたんですが、もう間に合わないで……。
李中行 (すり寄る。)もう間に合わないで……。娘は怪我をしましたか。
高田 怪我ぐらいなら好いが……。兎もかくも直ぐに近所の病院へ送ったんですが……。なにしろ手も足も折れて仕舞ったらしいので……。
李中行 (進みよる。)そ、それでも……。娘は、たたすかりますか。
高田 (躊躇しながら。)どうもそれが……。病院の医者もむずかしいと云っているんですよ。
(李はおどろいて倒れかかるを、高田はあわてて支えながら、再び榻に腰をかけさせる。)
李中行 (唸るように。)娘は……阿香は……。ああ、死ぬのか。
高田 それで取りあえず知らせに来たんです。さあ、早く病院へ来てください。阿母さんはどこにいるんです。
(李は答えず、卓の上に顔を伏せている。)
高田 (あたりを見まわす。)え、阿母さんはどうしました。畑へ行っているんですか。僕は阿母さんを呼んで来ますから、あなたは一足先へ行って下さい。病院は工場の近所ですから、工場へ行って訊けば直ぐに判ります。さあ、早く……。早く行ってください。
(高田は急いで引立つれば、李は失神したようにふらふらと立上る。)
高田 阿母さんはどこにいるんです。
(李は答えず、唯ぼんやりしている。)
高田 (じれて。)じゃあ、僕が探して来る。あなたは早く行って下さいよ。好いですか。(云い捨てて下のかたへ走り去る。)
(李はつづいて歩み出す気力もないように、再びぐったり[#「ぐったり」に傍点]と榻に腰をおろし、卓の上に俯伏《うつぶ》している。下の方より村の若者がバケツ二個を天びん棒に荷《にな》いて出で、何か歌いながら井戸の水を汲みて去る。それと入れちがいに、下のかたより柳は鎌を持ちて走り出で、すぐに内へ駈け込む。)
柳 (息をはずませて。)もし、お前さん。阿香が大変な怪我をしたそうで……。どうしたら好いだろう。お前さんも高田さんから話を聞いたろうね。
(李はやはり俯伏している。柳はその腕をつかんで、無理にひき起す。)
柳 お前さん、しっかりおしなさいよ。阿香はどうも助かりそうも無いと云うじゃあないか。中二のところへも知らせたと云うから、中二は直ぐに駈け付けたろうけれど、わたし達もこうしちゃいられない。お前さん、早く行って様子を見て来てくださいよ。
李中行 (力なげに。)行ってみたければ、お前ひとりで行くが好い。おれは忌《いや》だ。
柳 わたしは女だから困るじゃないか。お前さん早くおいでなさいよ。
李中行 (頭をふる。)忌だ、忌だ。
柳 なぜ忌だというのさ。娘が死にかかっているんじゃないか。
李中行 (嘆息して。)それだから忌だというのだ。可愛い娘が機械にまき込まれて、死にかかった蟋蟀《きりぎりす》のように、手も足も折れてしまった。……。そんな酷《むご》たらしい姿を見せ付けられて堪るものか。その話を聞いただけでも、おれはもう魂が抜けたようになっているのだ。
柳 (おなじく嘆息する。)そう云えば、わたしもそうだが、それでも息のあるうちに、一度逢って遣りたいような気もするからね。当人だって何か云って置きたいことがあるかも知れない。
李中行 遺言があるならば、中二が聞いて来るだろう。なにしろおれは御免だ。(また俯伏す。)
柳 困るねえ。だって、まだ死ぬか生きるか確に決まったわけでも無いじゃあないか
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