は彼に注意した。「横田君は初めから来ていやあしないよ。」
「いや、確かにそこに立っていたのだが……。」
「だって、そこにいないのが証拠じゃないか。」と、わたしはあざけるように笑った。「君のいわゆる『群衆妄覚』ならば、僕の眼にも見えそうなものだが……。僕にはなんにも見えなかったよ。」
倉沢はだまって、ただ不思議そうに考えていた。どこから飛んで来たのか、一匹の秋の蛍が弱い光りをひいて、彼の鼻のさきを掠めて通ったかと見るうちに、やがてその影は地に落ちて消えた。
それから三日の後に、わたしは倉沢の家を立去って京都へ行った。彼は停車場まで送って来て、月末の廿九日|午前《ひるまえ》にはきっと帰って来てくれと、再び念を押して別れた。
京都に着いて、わたしは倉沢のところへ絵ハガキを送ったが、それに対して何の返事もなかった。彼が平生の筆不精を知っている私は、別にそれを怪しみもしなかった。
廿九日、その日は二百十日を眼のまえに控えて、なんだか暴《あ》れ模様の曇った日で、汽車のなかは随分蒸し暑かった。午前十一時をすこし過ぎたころに静岡の駅に着いて、汗をふきながら汽車を降りると、プラットフォームの人混みのなかに、倉沢の家の若い雇人の顔がみえた。彼はすぐ駈けて来て、わたしのカバンを受取ってくれた。
つづいて横田君の姿が見えた。かれは麦わら帽をかぶって、白い洋服を着ていた。出迎えの二人は簡単に挨拶したばかりで、ほとんど無言でわたしを案内して、停車場の前にあるカフェー式の休憩所へ連れ込んだ。
注文のソーダ水の来るあいだに、横田君はまず口を切った。
「たぶん間違いはあるまいと思っていましたが、それでもあなたの顔が見えるまでは内々心配していました。早速ですが、きょうは午後二時から倉沢家の葬式で……。」
「葬式……。誰が亡くなったのですか。」
「倉沢小一郎君が……。」
わたしは声が出ないほどに驚かされた。雇人は無言で俯向いていた。女給が運んで来た三つのコップは、徒《いたず》らにわれわれの眼さきに列べられてあるばかりであった。
「あなたが京都へお立ちになった翌々日でした。」と、横田君はつづけて話した。「倉沢君は町へ遊びに出たといって、日の暮れがたに私の支局へたずねて来てくれたので、××軒という洋食屋へ行って、一緒にゆう飯を食ったのですが、その時に倉沢君は西瓜を注文して……。」
「西瓜を…
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