したが、うっかり話しかけることが出来なかったのです。あなたが私と口をきいて、もしそれがヒンクマン氏に聞こえると、どうしてあなたが独り言をいっているのかとおもって、この部屋へうかがいに来る虞《おそ》れがありますから……」
「しかし、君の言うことは人に聞こえないのかね」と、僕は訊いた。
「聞こえません」と、相手は言った。「誰かが私の姿を見ることがあっても、誰もわたしの声を聞くことは出来ません。わたしの声は、わたしが話しかけている人だけに聞こえるので、ほかの人には聞こえません」
「それにしても、君はどうして僕のところへ話しに来たのかね」と、僕はまた訊いた。
「わたしも時どきには人と話してみたいのです。ことにあなたのように、自分の胸いっぱいに苦労があって、われわれのような者がお見舞い申しても驚く余地がないような人と話してみたかったのです。あなたも私に厚意を持ってくださるように、特におねがい申しておきます。なにしろヒンクマン氏に長生きをされると、わたしの位地《いち》ももう支え切れなくなりますから、現在大いに願っているのは、どこへか移転することです。それについて、あなたもお力を貸してくださるだろう
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