ない。二ヵ月前には私も、これと同じ物語を大胆にも私に話したその男を、気ちがいか酔いどれのように侮蔑した。そうして、二ヵ月前には私は印度でも一番の仕合わせ者であった。それが今日では、ペシャワーから海岸に至るまでの間に、私よりも不幸な人間はまたとあろうか。
 この物語を知っているものは、私の医者と私の二人である。しかも私の医者は、わたしの頭や消化力や視力が病いに冒《おか》されているために、時どきに固執性の幻想が起こってくるのであると解釈している。幻想、まったくだ! わたしは自分の医者を馬鹿呼ばわりしているが、それでもなお、判で押したように彼は綺麗に赤い頬鬚《ほおひげ》に手入れをして、絶えず微笑をうかべながら、温和な職業的態度で私を見廻って来るので、しまいには私も、おれは恩知らずの、性《たち》の悪い病人だと恥じるようになった。しかし、これから私が話すことが幻想であるかどうか、諸君に判断していただきたい。
 三年前に長い賜暇《しか》期日が終わったので、グレーヴセントからボンベイへ帰る船中で、ボンベイ地方の士官の妻のアグネス・ケイス・ウェッシントンという女と一緒になったのが、そもそも私の運命――
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