ったのである。彼女の濃艶は彼の心を狂わせるが、それは愛ではない。彼はまた、彼女の肉体にみなぎるように見えるごとく、彼女の精神にも同じ有毒の原素が沁み込んでいると想像しているが、それは恐怖でもない。それは愛と恐怖との二つが生んだもので、しかもその二つの性質をそなえているものである。すなわち愛のごとくに燃え、恐怖のごとくに顫《ふる》えるところのものである。
ジョヴァンニは何を恐るべきかを知らず、また、それにも増して何を望むべきかをも知らなかった。しかも希望と恐怖とは絶えずその胸のうちで争っていた。交るがわるに、他の感情を征服するかと思えば、また起《た》って戦いを新たにするのである。暗いと明かるいとを問わず、いずれにしても単純なる感情は幸福である。赫《かく》かくたる地獄の火焔《ほのお》をふくものは、二つの感情の物凄いもつれである。
時どきに彼はパドゥアの街や郊外をむやみに歩き廻って、熱病のような精神を鎮めようと努めた。その歩みは頭の動悸と歩調を合わせたので、さながら競争でもしているように、だんだんに速くなっていくのであった。ある日、彼は途中である人にさえぎられた。ひとりの人品卑しからぬ男
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