青年との会合によって彼女に新しく湧き出したように思われた。
明らかに彼女の生涯の経験は、その庭園内に限られていた。彼女は日光や夏の雲のような、単純な事物について話した。また、都会のことや、ジョヴァンニの遠い家や、その友人、母親、姉妹《きょうだい》などについてたずねた。その質問はまったく浮世離れのした、流行などということはまったく掛け離れたものであったので、ジョヴァンニは赤ん坊に話して聞かせるような調子で答えた。
彼女は今や初めて日光を仰いだ新しい小川が、その胸にうつる天地の反映に驚異を感じているような態度で、彼の前にその心を打ち明けた。また、深い水源《みなもと》からはいろいろの考えが湧き出して、あたかもダイヤモンドやルビーがその泉の泡の中からでも光り輝くように、宝石のひかりを持った空想が湧き出した。
青年の心には折りおりに懐疑の念がひらめいた。彼は兄妹《きょうだい》のように話をまじえて、彼女を人間らしく、乙女《おとめ》らしく思わせようとするようなある者と、相並んで歩いているのではないかと思った。その人間には怖ろしい性質のあらわれるのを彼は実際に目撃しているのであって、その恐怖の色を理想化しているのではないかと思った。しかもこうした考えはほんの一時的のもので、彼女の非常に真実なる性格のほうは、容易に彼を親しませるようになったのである。
こういう自由な交際をして、かれらは庭じゅうをさまよい歩いた。並木のあいだをいくたびも廻り歩いたのちに、こわれた噴水のほとりに来ると、そのそばにはめざましい灌木があって、美しい花が今を盛りと咲き誇っていた。その灌木からは、ベアトリーチェの呼吸《いき》から出るのと同じような一種の匂いが散っていたが、それは比較にならないほどにいっそう強烈なものであった。彼女の眼がこの灌木に落ちたとき、ジョヴァンニは彼女の心臓が急に激しい鼓動を始めたらしく、苦しそうにその胸を片手でおさえるのを見た。
「わたしは今までに初めておまえのことを忘れていたわ」と、彼女は灌木に囁《ささや》きかけた。
「わたしが大胆にあなたの足もとへ投げた花束の代りに、あなたはこの生きた宝の一つをやろうと約束なすったのを覚えています。今日お目にかかった記念に、今それを取らせて下さい」と、ジョヴァンニは言った。
彼は灌木の方へ一歩進んで手をのばすと、ベアトリーチェは彼の心臓を刃《やいば》でつらぬくような鋭い叫び声をあげて駈け寄って来た。彼女は男の手をつかんで、かよわいからだに全力をこめて引き戻したのである。ジョヴァンニは彼女にさわられると、全身の繊維が突き刺されるように感じた。
「それにふれてはいけません。あなたの命がありません。それは恐ろしいものです」と、彼女は苦悩の声を張りあげて叫んだ。
そう言ったかと思うと、彼女は顔をおおいながら男のそばを離れて、彫刻のある入り口の下に逃げ込んでしまった。ジョヴァンニはそのうしろ姿を見送ると、そこには、ラッパチーニ博士の痩せ衰えた姿と蒼《あお》ざめた魂とがあった。どのくらいの時間かはわからないが、彼は入り口の蔭にあってこの光景を眺めていたのであった。
ジョヴァンニは自分の部屋にただひとりとなるやいなや、初めて彼女を見たとき以来、ついに消え失せないありたけの魅力と、それに今ではまた、女性らしい優しい温情に包まれたベアトリーチェの姿が、彼の情熱的な瞑想のうちによみがえってきた。彼女は人間的であった。彼女はすべての優しさと、女らしい性質とを賦与《ふよ》されていた。彼女は最も崇拝にあたいする女性であった。彼女は確かに高尚な勇壮な愛を持つことができた。彼がこれまで彼女の身体および人格のいちじるしい特徴と考えていたいろいろの特性は、今や忘れられてしまったのか。あるいは巧妙なる情熱的詭弁によって魔術の金冠のうちに移されてしまったのか。彼はベアトリーチェをますます賞讃すべきものとし、ますます比類なきものとした。これまで醜《みにく》く見えていたすべてのものが、今はことごとく美しく見えた。もしまた、かかる変化があり得ないとしても、醜いものはひそかに忍び出て、昼間は完全に意識することの出来ないような薄暗い場所にむらがる漠然とした考えのうちに影をひそめてしまった。
こうして、ジョヴァンニはその一夜を過ごしたのである。彼はラッパチーニの庭を夢みて、あかつきがその庭に眠っている花をよび醒ますまでは、安らかに眠ることができなかった。
時が来ると日は昇って、青年のまぶたにその光りを投げた。彼は苦しそうに眼をさました。まったく醒めたとき、彼は右の手に火傷《やけど》をしたような、ちくちくした痛みを感じた。それは彼が宝石のような花を一つ取ろうとした刹那に、ベアトリーチェに握られたその手であった。手の裏には、四本の指の痕《あと》の
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