世界怪談名作集
ラッパチーニの娘 アウペパンの作から
ホーソーン Nathaniel Hawthorne
岡本綺堂訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)遙《はる》ばると

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)実際|畏《おそ》るべき人

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)降伏[#「伏」は底本では「状」]し、
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       一

 遠い以前のことである。ジョヴァンニ・グァスコンティという一人の青年が、パドゥアの大学で学問の研究をつづけようとして、イタリーのずっと南部の地方から遙《はる》ばると出て来た。
 財嚢のはなはだ乏しいジョヴァンニは、ある古い屋敷の上の方の陰気な部屋に下宿を取ることにした。これはあるパドゥアの貴族の邸宅ででもあったらしく、その入り口の上には今はすっかり古ぼけてしまったある一家の紋章が表われているのが見られた。自国イタリーの有名な偉大な詩を知っていた旅の青年は、この屋敷の家族の祖先の一人、おそらくその所有者たる人は、ダンテの筆によって、かのインフェルノの煉獄の永劫《えいごう》呵責《かしゃく》の相伴者として描き出されたものであることを、想いおこされるのであった。これらの回想や連想が、はじめて故郷を去った若者にはきわめてありがちの断腸の思いと結び付いて、ジョヴァンニは思わず溜め息をついた。そうして、物さびしい粗末な部屋の中をあちらこちらと見まわした。
「おや、あなた」と、リザベッタ老婦人は、この青年の人柄のひどく立派なのに打たれて、この部屋を住み心地のよいように見せようと努めながら声をかけた。
「お若いかたの胸から溜め息などが出るとは、これはどうしたことでございましょう。あなたはこの古い屋敷を陰気だとでも思っていらっしゃるのですか。では、どうぞその窓から首を出してご覧下さい。ナポリと同じようにきらきらした日の光りが拝《おが》まれますよ」
 ジョヴァンニは、老婦人の言うがままにただ機械的に窓から首を突き出して見たが、パドゥアの日光が南イタリーの日光のように陽気だとは思われなかった。とはいえ、日光は窓の下の庭を照らして、さまざまの植物に恵みある光りを浴びせていた。その植物はまたひとかたならぬ注意をもって育てられたもののように見えた。
「この庭は、お家《うち》のものですか」と、ジョヴァンニは訊《き》いた。
「ほんとうに、あなた。あんな植物なぞはどうか出来ないで、それよりももっとよい野菜でも出来ましたらば……」と、老いたるリザベッタ婦人は答えた。「いいえ、そうではございません。あの庭はジャコモ・ラッパチーニさまが、ご自身の手で作っておいでになります。あの先生は名高いお医者さんで、きっと遠いナポリのほうまでもお名前がひびいていることと思います。先生はあの植物をたいそうつよい魅力を持った薬に蒸溜なさるとかいう噂で、折りおりに先生が働いていらっしゃるのが見えます。またどうかすると、お嬢さままでが庭に生えている珍らしい花を集めているのが見えますよ」
 老婦人は、この部屋の様子について、もう何もかも言い尽くしてしまったので、青年の幸福を祈りながら出て行った。
 ジョヴァンニはなんの所在もないので、窓の下の庭園をいつまでも見おろしていた。その庭の様子で、このパドゥアの植物園は、イタリーはおろか、世界のいずこよりも早く作られたものの一つであると判断した。もしそうでないとすると、もっとも、これはあまり当てにはならないが、かつて富豪の一族の娯楽場か何かであったかもしれない。
 庭園の中央には稀に見るほどの巧みな彫刻を施した大理石の噴水の跡がある。それも今はめちゃくちゃにこわれてしまって、その残骸はほとんど原形をとどめぬほどになっているが、その水だけは今も相変わらず噴き出して、日光にきらきらと輝いていた。その水のさらさらと流れ落ちる小さいひびきは、上にいる青年の部屋の窓までも聞こえてくる。この噴水が永遠不滅の霊魂であって、その周囲の有為転変《ういてんぺん》にはいささかも気をとめずに絶えず歌っているもののように思われるのであった。すなわち、ある時代には大理石をもって泉を造り、またある時はそれを毀《こぼ》って地上に投げ出してしまうような、有為転変の姿も知らぬように――。
 水の落ちてゆく池《プール》の周囲に、いろいろな植物が生い繁っているのを見ると、大きい木の葉や、美しい花の営養には、十分なる水分の供給が大切であるように思われた。池の中央にある大理石の花瓶のうちに、特にきわだって眼につく一本の灌木《かんぼく》があった。その木には無数の紫の花が咲いて、花はみな宝石のような光沢と華麗とをそなえてい
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