ヴァンニはただ二、三の植物を集めてみたが、それは彼が有毒植物ということを、かねて熟知している種類のものであった。
 こんな考察にふけっているとき、彼はふと衣《きぬ》ずれの音を聞いた。ふりかえって見ると、それはベアトリーチェが、彫刻した入り口の下から現われ出たのであった。

       三

 ジョヴァンニはこの際いかなる態度をとるべきものか。庭園に闖入《ちんにゅう》した申しわけをすべきものかどうか。また、みずから望んだことではなくても、少なくともラッパチーニとその娘には無断でここへ立ち入ったことを自認すべきものかどうか。そんなことは別に考えていなかったので、その瞬間すこしくあわてたが、ベアトリーチェの態度を見るにつけて、彼の心はやや落ち着いた。もっとも、誰の案内でここにはいることを許されたかということになれば、なおそこに一種の不安がないでもなかった。彼女は小径《こみち》を軽く歩んで来て、こわれた噴水のほとりで彼に出逢って、さすがに驚いたような顔をしていたが、また、その顔は親切な愉快な表情に輝いていた。
「あなたは花の鑑識家でございますね」と、ベアトリーチェは彼が窓から投げてやった花束を指して微笑《ほほえ》みながら言った。「それですから、父の集めた珍しい花に誘惑されて、もっと近寄って見たいとお思いになるのも不思議はありません。もし父がここにおりましたら、自然こういう灌木の性質や習慣などについて、いろいろな不思議なおもしろいことをお話し申し上げることが出来ましょうに……。父はそういう研究に一生涯をついやしました。そうして、この庭が父の世界なのでございます」
「あなたもそうでしょう」と、ジョヴァンニは言った。「世間の評判によると、あなたもたくさんの花やいい匂いについて、ずいぶんご造詣《ぞうけい》が深いそうではありませんか。いかがです、わたしの先生になって下さいませんか。そうすると、わたしはラッパチーニ先生の教えを受けるよりも、もっと熱心な学生になるのですが……」
「そんないい加減な噂があるのでしょうか」と、ベアトリーチェは音楽的な愉快な笑い方をして訊《き》いた。「わたくしが父に似て植物学に通じているなどと、世間では言っておりますか。まあ、冗談でしょう。わたくしはこの花のなかに育ちましたけれど、色と匂いのほかには、なんにも存じませんのです。その貧弱な知識さえも時どきに失《な》くなってしまうように思うことがあります。ここにはたくさんの花があって、あまりにけばけばしいので、それを見るとわたくしはなんだか忌《いま》いましくなって来ます。しかしあなた、こうした学術に関するわたくしの話は、どうぞ信用して下さらないように……。あなたのご自分の眼でご覧になることのほかは、わたくしの言うことなどはなんにもご信用なさらないで下さい」
「わたしは自分の眼で見たものをすべて信じなければならないのですか」と、ジョヴァンニは以前の光景を思い出して逡巡《しりごみ》しながら、声をとがらして訊いた。「いいえ、あなたはわたくしに求めなさ過ぎます。どうぞ、あなたの口唇《くちびる》からもれること以外は信じるなと言って下さい」
 ベアトリーチェは彼の言うことを理解したように見えた。彼女の頬は真紅《まっか》になった。しかも彼女はジョヴァンニの顔をじっと眺めて、彼が不安らしい疑惑の眼をもって見ているのに対して、さながら女王のような傲慢《ごうまん》をもって見返した。
「では、そう申しましょう。あなたがわたくしのことをどうお考えになっていたとしても、それは忘れて下さい。たとい外部の感覚は本当であっても、その本質において相違しているところがあるかもしれません。けれども、ベアトリーチェ・ラッパチーニのくちびるから出る言葉は、心の奥底から出る真実の言葉ですから、あなたはそれを信じて下すってもよろしいのです」
 彼女の容貌には熱誠が輝いていた。その熱誠は真実そのものの光りのようにジョヴァンニの意識の上にも輝いた。しかし、彼女がそれを語っている間、その周囲の空気のうちには、消えやすくはあるが豊かないい匂いがただよっていたので、この青年はなんとも知れぬ反感から、努めてその空気を吸わないようにしていた。
 その匂いは花の香りであろう。しかも、彼女の言葉をさながら胸の奥にたくわえてあったかのように、かくも不思議の豊富にしたのは、ベアトリーチェの呼吸であろうか。一種の臆病心は影のようにジョヴァンニの胸から飛び去ってしまった。彼は美しい娘の眼を通して、水晶のように透きとおったその魂を見たように思って、もはやなんの疑惑も恐怖も感じなかった。
 ベアトリーチェの態度にあらわれていた情熱の色は消えて、彼女は快活になった。そうして、孤島の少女が文明国から来た航海者と談話をまじえて感ずるような純な歓びが、この
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