彼女の顔は幾世紀を経て薄ぎたなくなった怪異な木彫りのように見えた。
「まあお聴きなさい。庭へはいるのには、秘密の入り口があるのでございますよ」
「なんだって……」と、ジョヴァンニは無生物が生命を吹き込まれて飛び上がるように、急に振り返って叫んだ。「ラッパチーニの庭へはいる秘密の入り口……」
「しっ、しっ。そんなに大きな声をお出しになってはいけません」と、リザベッタはその手で、彼の口を蔽《おお》いながら言った。「さようでございます。あの偉い博士さまのお庭にはいる秘密の入り口でございます。そのお庭では、立派な灌木の林がすっかり見られます。パドゥアの若いかたたちは、みんなその花の中に入れてもらおうと思って、お金を下さるのでございます」
 ジョヴァンニは金貨一個を彼女の手に握らせた。
「その道を教えてくれたまえ」と、彼は言った。
 たぶんバグリオーニとの会話の結果であろうが、このリザベッタ婦人の橋渡しは、ラッパチーニが彼をまき込もうとしていると教授が想像しているらしい陰謀――それがいかなる性質のものであっても――と、何か関連しているのではないかという疑いが、彼の心をかすめた。しかし、こうした疑いは、ジョヴァンニの心を一旦《いったん》かきみだしたものの、彼を抑制するには不十分であった。ベアトリーチェに接近することが出来るということを知った刹那《せつな》、そうすることが彼の生活には絶対に必要なことのように思われた。
 彼女が天使であろうと、悪魔であろうと、そんなことはもう問題ではなかった。彼は絶対に彼女の掌中《しょうちゅう》にあった。そうして、彼は永久に小さくなりゆく圏内に追い込まれて、ついには、彼が予想さえもしなかった結果を招くような法則に、従わなければならなかった。
 しかも不思議なことには、彼はにわかにある疑いを起こした。自分のこの強い興味は、幻想ではあるまいか。こういう不安定の位置にまで突進しても差し支えないと思われるほどに、それが深い確実な性質のものであろうか。それは単なる青年の頭脳の妄想で、彼の心とはほんのわずかな関係があるに過ぎないか、またはまるで無関係なのではあるまいか。彼は疑って、躊躇《ちゅうちょ》してあと戻りをしかけたが、ふたたび思い切って進んで行った。
 皺だらけの案内人は幾多のわかりにくい小径を通らせて、ついにあるドアをひらくと、木の葉がちらちらと風にゆらいで、日光が葉がくれにちらちらと輝いているのが見えた。ジョヴァンニは更に進んで、隠れた入り口の上を蔽っている灌木の蔓《つる》がからみつくのを押しのけて、ラッパチーニ博士の庭の広場にある自分の窓の下に立った。
 われわれはしばしば経験することであるが、不可能と思うようなことが起こったり、今まで夢のように思っていたことが実際にあらわれたりすると、歓楽または苦痛を予想してほとんど夢中になるような場合でも、かえって落ち着きが出て、冷やかなるまでに大胆になり得るものである。運命はかくのごとくわれわれにさからうことを喜ぶ。こういう場合には、情熱が時を得顔《えがお》にのさばり出て、それがちょうどいい工合《ぐあい》に事件と調和するときには、いつまでもその事件の蔭にとどこおっているものである。
 今のジョヴァンニは、あたかもそういう状態に置かれてあった。彼の脈搏《みゃくはく》は毎日熱い血潮で波打っていた。彼はベアトリーチェに逢って、彼女を美しく照らす東洋的な日光を浴びながら、この庭で彼女と向かい合って立ち、彼女の顔をあくまでも眺めることによって、彼女の生活の謎になっている秘密をつかもうと、出来そうもないことを考えていた。しかも今や彼の胸には、不思議な、時ならぬ平静が湧いていた。彼はベアトリーチェか、またはその父がそこらにいるかと思って、庭のあたりを見まわしたが、まったく自分ひとりであるのを知ると、さらに植物の批評的観察をはじめた。
 ある植物――否《いな》、すべての植物の姿態が彼には不満であった。その絢爛《けんらん》なることもあまりに強烈で、情熱的で、ほとんど不自然と思われるほどであった。たとえば、ひとりで森の中をさまよっている人が、あたかもその茂みの中からこの世のものとも思われぬ顔が現われて、じろりと睨《にら》まれた時のように、その不気味な姿に驚かされない灌木はほとんどなかった。また、あるものはいろいろの科に属する植物を混合して作り出したかと思われるような、人工的の形状で、感じやすい本能を刺戟した。それはもはや神の創造したものではなく、単に人間がその美を下手に模倣して、堕落した考えによって作りあげたものに過ぎなかった。これらはおそらく一、二の実験の結果、個個《ここ》の植物を混合して、この庭の全植物と異った、不思議な性質をそなえたものに作り上げることにおいて成功したのであろう。ジョ
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