が彼を認めて引き返し、息を切りながら彼に追いついて、その腕を取ったのである。
「ジョヴァンニ君。おい、君。ちょっと待ちたまえ。君は、僕を忘れたのか。僕が君のように若返ったとでもいうのなら、忘れられても仕方がないが……」と、その人は呼びかけた。
それはバグリオーニ教授であった。この教授は悧口《りこう》な人物で、あまりに深く他人の秘密を見透し過ぎるように思われたので、彼は初対面以来、この人をそれとなく避けていたのである。彼は自己の内心の世界から外部の世界をじっと眺めて、自己の妄想から眼覚めようと努めながら、夢みる人のように言った。
「はい、私はジョヴァンニ・グァスコンティです。そうしてあなたは、ピエトロ・バグリオーニ教授。では、さようなら」
「いや、まだ、まだ、ジョヴァンニ・グァスコンティ君」と、教授は微笑とともに青年の様子を熱心に見つめながら言った。「どうしたことだ。僕は君のお父さんとは仲よく育ったのに、その息子はこのパドゥアの街で僕に逢っても、知らぬ振りをして行き過ぎてもいいのかね。ジョヴァンニ君。別れる前にひとこと話したいから、まあ、待ちたまえ」
「では、早く……。先生、どうぞお早く……」と、ジョヴァンニは、非常にもどかしそうに言った。「先生、私が急いでいるのがお見えになりませんか」
彼がこう言っているところへ、黒い着物をきた男が、健康のすぐれぬ人のように前かがみになって弱よわしい形でたどって来た。その顔は全体に、はなはだ病的で土色を帯びていたが、鋭い積極的な理智のひらめきがみなぎっていて、見る者はその単なる肉体的の虚労《きょろう》を忘れて、ただ驚くべき精力を認めたであろう。彼は通りがかりに、バグリオーニと遠くの方から冷《ひや》やかな挨拶を取り交したが、彼はこの青年の内面に何か注意に値《あた》いすべきものあらば、何物でも身透さずにはおかぬといったような鋭い眼をもって、ジョヴァンニの上にきっとそそがれた。それにもかかわらず、その容貌には独特の落ち着きがあって、この青年に対しても人間的ではなく、単に思索的興味を感じているように見られた。
「あれが、ドクトル・ラッパチーニだ」と、彼が行ってしまった時に教授はささやいた。「彼は君の顔を知っているのかね」
「私は知っているというわけではありません」と、ジョヴァンニはその名を聞いて驚きながら答えた。
「彼のほうでは確かに君を知っているよ。彼は君を見たことがあるに違いない」と、バグリオーニは急《せ》き込んで言った。「何かの目的で、あの男は君を研究している。僕はあの様子で分かったのだ。彼がある実験のために、ある花の匂いで殺した鳥や鼠や蝶などに臨むとき、彼の顔に冷たくあらわれるものとまったく同じ感じだ。その容貌は自然そのもののごとくに深味をもっているが、自然の持つ愛の暖か味はない。ジョヴァンニ君。君はきっとラッパチーニの実験の一材料であるのだ」
「先生。あなたは僕を馬鹿になさるのですか。そんな不運な実験だなどと……」と、ジョヴァンニは怒気を含んで叫んだ。
「まあ、君、待ちたまえ」と、執拗《しつよう》な教授は繰りかえして言った。「それはね、ジョヴァンニ君。ラッパチーニが君に学術的興味を感じたのだよ。君は恐ろしい魔手に捉《とら》われているのだ。そうして、ベアトリーチェは……彼女はこの秘密についてどういう役割を勤めるのかな」
しかしジョヴァンニはバグリオーニ教授の執拗にたえきれないで、逃げ出して、教授がその腕を再び捉えようとしたときには、もうそこにはいなかった。教授は青年のうしろ姿をまばたきもせずに見つめて、頭を振りながらひとりごとを言った。
「こんなはずではないが……。あの青年は、おれの旧友の息子だから、おれは医術によって保護し得る限りは、いかなる危害をも彼に加えさせないつもりだ。それにまた、おれに言わせると、ラッパチーニがあの青年をおれの手から奪って、かの憎むべき実験の材料にするなどとは、あまりにひどい仕方だ。彼の娘も監視すべきだ。最も博学なるラッパチーニよ。おれはたぶんおまえを夢にも思わないようなところへ追いやってしまうであろう」
ジョヴァンニは廻り道をして、ついにいつの間にか自分の宿の入り口に来ていた。彼が入り口の閾《しきい》をまたいだときに、老婦人のリザベッタに出逢った。
彼女はわざと作り笑いをして、彼の注意をひこうと思ったが、彼の沸き立った感情はすぐに冷静になって、やがて茫然《ぼうぜん》と消えてしまったので、その目的は達せられなかった。彼は、微笑をたたえた皺だらけの顔の方へ真正面に眼を向けてはいたが、その顔を見ているようには思われなかった。そこで、老婦人は彼の外套《がいとう》をつかんだ。
「もし、あなた、あなた」と、彼女はささやいた。その顔にはまだ一面に微笑をたたえていたので、
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