ような紫の痕があって、拳《こぶし》の上には細い拇指《おやゆび》の痕らしいものもあった。
愛はいかに強きことよ。――たといそれが想像のうちにのみ栄えて、心の奥底までは揺り動かさないような、うわべばかりの贋《まが》いものであったとしても――薄い霞のように消えてゆく最後の瞬間までも、いかに強くその信念を持続することよ。ジョヴァンニは自分の手にハンカチーフを巻いて、どんな禍《わざわ》いが起こって来るかと憂いたが、ベアトリーチェのことを思うと、彼はすぐにその痛みを忘れてしまったのである。
第一の会合の後、第二の会合は実に運命ともいうべき避けがたいものであった。それが第三回、第四回とたびかさなるにつれて、庭園におけるベアトリーチェとの会合は、もはやジョヴァンニの日常生活における偶然の出来事ではなくなって、その生活の全部であった。彼がひとりでいる時は、嬉しい逢う瀬の予想と回想とにふけっていた。
ラッパチーニの娘もやはりそれと同じことであった。彼女は青年の姿のあらわれるのを待ちかねて、そのそばへ飛んで行った。彼女は彼が赤ん坊時代からの親しい友達で、今でもそうであるかのように、なんの遠慮もなしに大胆に振舞った。もし何かの場合で、まれに約束の時間までに彼が来ないときは、彼女は窓の下に立って、室内にいる彼の心に反響するような甘い調子で呼びかけた。
「ジョヴァンニ……。ジョヴァンニ……。何をぐずぐずしているの。降りていらっしゃいよ」
それを聞くと、彼は急いで飛び出して、毒のあるエデンの花園に降りて来るのであった。
これほどの親しい間柄であるにもかかわらず、ベアトリーチェの態度には、なお打ち解けがたい点があった。彼女はいつも行儀のいい態度をとっているので、それを破ろうという考えが男の想像のうちには起きないほどであった。すべての外面上の事柄から観察すると、かれらは確かに相愛の仲であった。かれらは路《みち》ばたでささやくには、あまりに神聖であるかのように、たがいの秘密を心から心へと眼で運んだ。かれらの心が永く秘められていた火焔《ほのお》の舌のように、言葉となってあらわれ出るときには、情熱の燃ゆるがままに恋を語ることさえもあった。それでも接吻や握手や、または恋愛が要求し神聖視するところの軽い抱擁さえも試みたことはなかった。彼は彼女の輝いたちぢれ毛のひと筋にも、手をふれたことはなかった。彼の前で彼女の着物は微風に動かされることさえもなかった。それほどにかれらの間には、肉体的の障壁がいちじるしかった。
まれに男がこの限界を超えるような誘惑を受けるように思われた時には、ベアトリーチェは非常に悲しそうな、また非常に厳格な態度になって、身を顫《ふる》わせて遠く離れるような様子を見せた。そうして、彼を近づけないために、なんにも口をきかないほどであった。こんな時には、彼は心の底から湧き出て来て、じっと彼の顔を眺めている、不気味な恐ろしい疑惑の念におどろかされるので、その恋愛は朝の靄《もや》のように薄れていって、その疑惑のみがあとに残った。しかも瞬間の暗い影のあとに、ベアトリーチェの顔がふたたび輝いた時には、彼がそれほどの恐怖をもって眺めた不思議な人物とはすっかり変わっていた。彼が知っている限りでは、彼女は確かに美しい初心《うぶ》な乙女《おとめ》であった。
ジョヴァンニが曩《さき》にバグリオーニ教授に逢ってからは、かなりに時日が過ぎた。ある朝、彼は思いがけなく、この教授の訪問を受けて不快に思った。彼はこの数週間、教授のことなどを思い出してもみなかったのみならず、いっそいつまでも忘れていたかった。彼は長く打ちつづく刺戟に疲れてはいたが、自分の現在の感激状態に心から同情してくれる人でなければ逢いたくなかった。しかしこんな同情は、バグリオーニ教授に期待することは出来なかった。教授はしばらくの間、市中のことや大学のことなどについて噂ばなしをしたのちに、ほかの話題に移って行った。
「僕は、この頃、ある古典《クラシック》的な著者のものを読んでいるが、その中で非常に興味のある物語を見つけたのだ」と、彼は言った。「君もあるいは思い出すかもしれないが、それはあるインドの皇子の話だ。彼はアレキサンダー大帝に一人の美女を贈った。彼女はあかつきのように愛らしく、夕暮れのように美しかったが、非常に他人と異っているのは、その息がペルシャの薔薇の花園よりもなお芳《かぐわ》しい、一種の馥郁《ふくいく》たる香気を帯びていることであった。アレキサンダーは、若い征服者によくありがちなことであるが、この美しい異国の女をひと目見るとたちまちに恋におちてしまった。しかも偶然その場に居合わせたある賢い医者が彼女に関する恐ろしい秘密を見破ったのだ」
「それはどういうことだったのですか」と、ジョヴァンニは教授
前へ
次へ
全17ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング