来にほとんど灯のかげは見えなかったが、その時代の人は暗い夜道に馴れているので、中間の持っている提灯一つの光りをたよりに、秋山は富島町と川口町とのあいだを通りぬけて、亀島橋にさしかかった。
橋の上は風も強い。秋山は傘を傾けて渡りかかると、うしろから不意に声をかけた者があった。
「旦那の御|吟味《ぎんみ》は違っております。これではわたくしが浮かばれません。」
それは此の世の人とも思われないような、低い、悲しい声であった。秋山は思わずぞっとして振返ると、暗い雨のなかに其の声のぬしのすがたは見えなかった。
「仙助。あかりを見せろ。」
中間に提灯をかざさせて、彼はそこらを見廻したが、橋の上にも、橋の袂にも、人らしい者の影は見いだされなかった。
「おまえは今、なにか聞いたか。」と、秋山は念のために中間に聞いてみた。
「いいえ。」と、仙助はなにも知らないように答えた。
秋山は不思議に思った。極めて細い、微かな声ではあったが、雨の音にまじって確かに自分の耳にひびいたのである。それとも自分の空耳で、あるいは雨か風か水の音を聞きあやまったのかも知れないと、彼は半信半疑で又あるき出した。八丁堀へゆき
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