一匹の青い蛇が白っぽい腹を出して横たわっていた。
「むむ、蛇だ。」
 巡査は子細にあらためて、また俄かに笑い出した。
「はは、これは玩具《おもちゃ》だ。拵《こしら》え物だ。」
「ほんとうの蛇じゃありませんか。」
 のぞき込む私の眼の前へ、巡査は笑いながらかの蛇をとって突き出した。なるほど精巧には出来てはいるが、それは確かに拵え物の青大将であるので、わたしも思わず笑い出した。
「はは、玩具だ。多代子さん、驚くことはありません。こりゃ玩具の蛇ですよ。」
 このごろは博覧会の夜間開場が始まったので、夜ふけて帰る女たちを暗いところに待ち受けて、悪いたずらをする奴がしばしばある。これもそのたぐいであろうと巡査は言った。そう判ってみれば、さしたる問題でもないので、わたし達は挨拶して巡査に別れた。わたしはどうせ先生の家へゆく途中であるから、女ふたりを送りながら一緒に付いて行ったが、先生の門をくぐるまでの間、多代子は一言も口をきかなかった。
「近所ではあり、まだ宵だからと油断して、若い者ばかりを出してやったのが間違いでした。」
 と、奥さんは悔んでいた。
 たとい玩具にもしろ、何者かのいたずらにもしろ、二人ならんでいる女のうちで、多代子を目ざして蛇を投げ付けたのは、故意か偶然かと私はかんがえた。二人のうちで、多代子の方が一段美しいためであったかとも考えられた。その形のみえない暗いなかで、多代子が十分にそれを蛇と直覚したのは少しく変だとも言えないことはない。しかもその晩は何事もなく、わたしは先生と一時間あまり話して帰った。
 第四回の訪問は六月はじめの午前で、先生の門をくぐると、大きい桜の葉から毛虫が二、三匹落ちて来た。例のごとく二階へ通されたが、奥さんの話によると、お嬢さんは学校へ出て行ったが、多代子は病気で寝ている、それに就いて、先生は警察へ行っているとの事であった。
「なにしに警察へ行かれたのですか。」
「こういうわけなのです。」と、奥さんは顔を曇らせながら説明した。「御存じの通り、先月なかばに多代子さんと娘が根津へ買物に出て、その帰りに多代子さんが蛇をほうり付けられたことがあるでしょう。それは玩具《おもちゃ》の蛇でしたが、今度はほんとうの蛇をほうり込んだ奴があるのです。先月の末に、下の八畳で多代子さんと娘が机にむかって勉強していると、肱《ひじ》かけ窓から一匹の青大将を多代子さんの顔へ……きゃっ[#「きゃっ」に傍点]という騒ぎのうちに、相手は逃げてしまったのですが、なんでも横手の生垣《いけがき》を破って忍び込んだらしいのです。娘の話では、そのうしろ姿が若い学生らしかったということです。まだそれだけなら好いのですけれど、その後にたびたび多代子さんのところへ脅迫状をよこして、午後八時ごろまでに根津権現の表門前まで来てくれ、さもなければ、いつまでも蛇をもってお前を苦しめるからそう思え、というようなことが書いてあるのです。一度や二度は打っちゃって置きましたけれど余りたびたび重なるので、一応は警察へ届けて置く方がよかろうといって、良人《うち》はさっきから警察へ行っているのです。いずれ不良青年の仕業《しわざ》でしょうけれど、困ってしまいますよ。」
「けしからんことですな。それで多代子さんは寝ているんですか。」
「なんだか気分が悪いといって、二、三日前から学校を休んでいるのです。」
 勿論、不良青年の仕業であろうが、その青年がもしや広島県のKの町の人間ではないかと、わたしは考えた。そうして、思わず口をすべらせた。
「多代子さんには蛇が祟《たた》っているようですな。」
「なぜです。」
 奥さんにだんだん問い詰められて、私はとうとうあの汽車の一件を打明けると、奥さんはいよいよ顔の色を暗くした。
「まあ、そんな事があったのですか。なにかの心得になるかも知れませんから、良人《うち》にも一と通り話して置いて下さいよ。」
「いや、先生に話すと笑われます。」
 そこへあたかも先生が帰って来て、その不良青年については警察でも、たいてい心当りがあるとの事であった。奥さんが頻《しき》りに催促するので、しょせん無駄だとは思いながら、わたしは再び先生の前で汽車中の一件を報告すると、果たして先生はただ冷やかに笑っていた。
「それは僕に話してもしようがない。小説家のところへでも行って話して聞かせる方が、よさそうだね。」
 奥さんもわたしも、重ねていう術《すべ》がなかった。

     三

 それから五、六日経つと、多代子さんにいたずらをした不良青年が捕われたという新聞記事が見えたので、わたしはその晩すぐに先生の家を訪問すると、先生は誰かの洋行送別会に出席したといって留守であった。奥さんに会って、わたしは新聞記事の詳細を聞きただすと、奥さんはまず第一にこんなことを言い出した。
「どうもわたしは驚きましたよ。多代子さんを付け狙った不良青年は、やっぱり広島県のKの町の生れだったそうです。」
「そうですか。」と、わたしも眼をかがやかした。「じゃあ、多代子さんの身許《みもと》を知っていたんでしょうか。」
「それは知らないのだそうですがね。そんな事を常習的にやっているので、警察からも眼をつけられている不良青年で、多代子さんがFの町の人だか、三好という家の娘だか、そんなことはなんにも知らないで、ただその容貌《きりょう》の好いのを見て付け狙ったというだけの事らしいのです。しかし、それがちょうどにKの町の人間だというのが不思議じゃありませんか。」と、奥さんは眉をよせた。
「不思議ですね。」と、私もなんだか不思議のように思われてならなかった。
「ねえ、そうでしょう。」と、奥さんは重ねて言った。「良人《うち》はあんな人ですから、何を言っても取合ってはくれませんけれど、わたしはなんだか気になるので、多代子さんにいろいろ訊いてみましたが、本人はなんにも心当りがないと言うのです。けれども、あなたのお話によると、多代子さんの兄妹は汽車のなかで蛇の話を聞いて、途中で急に下車して家に引っ返したらしいというじゃありませんか。してみると、やっぱり何か思い当ることがあるに相違ないと思われるのですが……。」
 当人が隠しているものを無理に詮議するのも好くないから、まず其のままにして置いたが、その以来、自分の家に多代子さんを預かっているのが何だか不安になって来たと、奥さんは小声で話した。奥さんの鑑定通り、多代子は何かの秘密を知っていながら、あくまでも知らないと言い張っているらしく思われたが、さてそれがどんな秘密であるかは、所詮《しょせん》われわれの想像の及ばないことであった。
「多代子さんの兄さんが来たときに訊いてみようかとも思うのですが、それもなんだか変ですからねえ。」と、奥さんは考えていた。
「それはお止《よ》しになった方がいいでしょう。」と、わたしは注意した。「そのうちには自然に判ることがあるかも知れません。」
「そうですねえ。多代子さんと違って、透さんにうっかりそんなことを訊いて、それが良人《うち》の耳にでもはいると、わたしが又叱られますから。」
 多代子の話はそれで打切りになった。先生の帰りは遅くなりそうだというので、わたしは奥さんと三十分ほど話して帰った。社の用件も片付いて、わたしも七月の初めには再び門司の支店へ帰ることになったので、先生のところへ暇乞いにゆくと、あいにくに今夜も先生は留守であった。梅雨《つゆ》のまだ明け切らない曇った宵である。こんな晩に先生はどこへ行かれたかと訊《たず》ねると、奥さんは小声で答えた。
「桐沢さんのところへ呼ばれて行ったのです。」
「桐沢さん……。」
「あなたも御存じでしょう。」
「お名前だけは承知しています。」と、わたしは言った。桐沢氏は知名の実業家で、その次男は大学の文科に籍を置いている。それが将来は先生のお嬢さんの婿になるという内約のあるらしいことは、わたしも薄々知っていた。そういう事情から、桐沢氏は多代子のような若い娘を自分の家にあずかって置くのは、先生夫婦の思惑もいかがという遠慮から、わざと自宅に寄宿させることを避けて、反対に彼女を先生のところへ預けることになったらしい。それは私も薄々察していたが、その桐沢という人にも、又その次男という人にも、これまで懸け違って一度も出逢ったことはなかったのである。
 そういう訳であるから、外出嫌いの先生が今夜のような晩に桐沢氏を訪問したのも、別に怪しむにも足らないのであった。しかし、それを話す奥さんの顔色は余り晴れやかでなかった。
「なんだか変なことですね。」
「どういう事です。何か事件が出来《しゅったい》したんですか。」
「ええ。」と、奥さんはうなずいた。「また例の多代子さんのことで……。」
「また蛇でもぶつけられたんですか。」
「いいえ、そうじゃないのですが……。学校もやがて夏休みになるので、兄さんの透さんも帰省する。多代子さんも毎年一緒に帰るのですが、この夏に限って帰らないと言い出して、熱海か房州か、どこかの海岸へ行きたいと言うのです。郷里でも両親が待っているから、まあ帰れと兄さんが勧めるのですけれど、本人はどうしても忌《いや》だと言うのです。」
「なぜでしょう。」
「それはよく判りません。」と、奥さんは言った。「いくら本人が行きたいと言ったところで、若い娘たちをむやみに海岸の避暑地なぞへ出してやられるものではありません。誰か相当の者が付いて行かなければならないでしょう。兄さんでも一緒に行ってくれれば格別ですが、兄さんはどうしても帰省するという。妹は忌だという。といって、わたし達が付いて行くというわけにも行かず、まことに困ってしまうので、良人《うち》はその相談ながらに、今夜桐沢さんのところへ出かけて行ったのですが、どういうことに決まりますかねえ。」
 多代子が帰省を嫌うのは、山陽線の列車の中で又もや何かの蛇さわぎに出逢うのを恐れているのではないかと、私はふと思い浮かんだので、それを奥さんにささやくと、奥さんも同感であるらしかった。
「実はわたしも、もしやと思って、それとなく多代子さんに訊いて見たのですが、本人は一向にそんなことを言わないのです。もっとも隠しているのかも知れませんが……。あなたもそういうお考えならば、もう一度、良人に話してみましょうか。」
「およしなさい。」と、わたしは遮《さえぎ》った。「そんなことを言っても駄目ですよ。先生はとても受付ける筈はありませんよ。現にこのあいだもあの通りでしたから。」
「それもそうですが……。」と、奥さんも思い煩うように見えた。「なにしろ本人がどうしても忌だというものを、無理に帰してやるわけにも行きますまいからねえ。」
「多代子さんはどうしているんです。」
「やはり下の八畳に……。娘と一緒に机を列《なら》べているのです。」
「別に変った様子も見えませんか。」
「ほかには別に変ったことも……。」
 奥さんがこう言いかけた時に、階子《はしご》をあがって来る足音がひびいた。と思う間もなく、、襖《ふすま》の外から若い男の声がきこえた。
「奥さん、御来客中をまことに失礼ですが……。」
「あ、透さん。いつお出でなすったの。」と、奥さんは見返った。「構いません。おはいりなさい。」
 襖をあけて、電燈の下に蒼白い顔をあらわしたのは、学生風の青年であった。私はその青年をひと目見て、彼が多代子の兄の三好透であることを直ぐに覚ったが、相手の方ではもう私を見忘れているらしかった。殊に今夜の彼はひどく亢奮《こうふん》しているらしく、私に向ってはなんの会釈もせずに、突っ立ったままで奥さんに話しかけた。
「奥さん。妹はあしたの朝の汽車で連れて帰ります。」
「あしたの朝……。多代子さんも承知したのですか。」
「承知しても、しないでも、直ぐに連れて帰ります。」と、彼は奥さんに食ってかかるように声をとがらせた。
「まあ、おかけなさい。」と、奥さんは逆らわずに椅子をすすめた。「どうしてそんなに急に帰ることになったのです。実はそのことで、良人《うち》は今夜桐沢さんのところへ行っているのですが……。」
「先生
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